2003年11月

平成15年11月25日(火)
第027号「二つの"H"」

(プロローグ)
先週は「はなわとチョコレート」というタイトルだったが、チョコレートのことまで話が進まなかった。チョコレートとは何のことかといえば、はなわさんとは何の関係もない、その日行ったチョコレートショップのこと。
何だろうと期待した人、ごめんなさい。

もともとは、はなわさんとひっかけたつもりだった。「はなわさんは佐賀県のことを辛口で語るけれど、すいかに塩をつけたほうが甘味が引き立つように、チョコレートを作るのに、カカオと砂糖だけじゃおいしくなくて、○○を入れないといけない、というように、ただ、甘いばかりばかりじゃいいものはできない、こういうスパイスが必要なのだ。」というフレーズを書こうとしたのだった。
タイトルを作ったときには、この○○に何かが入るだろうと思っていて、それを確認すればいいと思って調べたところ、あまり大きな存在のものがなさそうだということがわかってしまい、この話がボツになってしまったのだ。

(チョコレート)
ということで、東京佐賀県人会が終わった後、今回僕が歌った「佐賀県」の替え歌を作るのに協力してくれたスタッフたちに何かお礼をしようと思い、チョコレートを買って帰ろうと思い立った。
県人会の会場だったホテルの中にあるレストランで食事をしながら、ウェイトレスに「どこかおいしいチョコレートショップ知らない?」とたずねたら、「六本木ヒルズの中にできた店がいいって聞いてます。」と教えてくれた。
BINGO!この人に聞いたのがよかった。この手のことは、聞いた相手によっては、宇宙人との会話のようになってしまう。
さっそく、六本木ヒルズに行き、お目当てのチョコレートショップを発見した。
「ル・ショコラ・ドゥ・アッシュ」
結果的に45分並んだ。並び始めたのは夕暮れだったが、途中で街路樹にイルミネーションが灯り、夜になった。

店は通りに面していて、行列がふたつできていた。
ひとつは、店内でチョコレートドリンクを飲むための行列、そして長いほうが買い物をするためのものだった。
なぜチョコレートショップに行列なのか。あまりたくさんのお客さんが店内に入ると温度が上がってしまうからだという。店の前では、若い男性のスタッフがお客さんを誘導していて、一組出ていったら次を入れている。よく見ると、通りから見て、チョコレートを買うスペースは左側にあるのに、行列は右側に延びている。
なぜですか、と聞いたところ、「店内で召し上がるサロンよりも、ショップのほうがどうしても行列が長くなるのですが、そのまま左側に並んでいただくと店のウインドウの前にお客様が行列されることになってしまいます。森ビルさんから、ショーウインドウが見えなくなるような並びかたは避けてほしいと言われまして、こんな風にクロスにならんでもらっているのです。」というていねいで、しかも、きちんとした答えが返ってきた。
こうなると突っ込んで聞きたくなるじゃない。

この店の名前の由来は?「パティシェが辻口博啓というものですから、そのイニシャル「H(フランス語でアッシュと発音)を取りました。」

一番人気は?「マロンのチョコレートですね。」

もっと売れていいと思うのにお客様の手が伸びないものは?「焼き菓子です。あそこにひとつだけ残っていますが、濃厚なチョコレートの味をお好みの方にはぜひと思います。」

いつもこんなに並んでいらっしゃるのですか?「だいたい、30分から60分待ちくらいのことが多いです。今はイルミネーションが灯っていて、それを見たりして、気を紛らわせていただいているのですが、何もなしで60分となるとお叱りを受けることもありまして。」

買ったチョコレートも絶品だった。とくに焼き菓子はたしかに勧められただけある。なんといっても、保存を気にしなくていいし。

行列覚悟だけどお時間とお気持ちのある方、ぜひ。

(九年庵)
行列といえば九年庵だ。佐賀県内の紅葉の名所でありながらこれまで行ったことがなかった。
資産公開でも明らかにしているように、僕は車を持っていないので、こういう場合誰かの助けが必要になる。
そのとき、たまたま友達Hからメールが来た。
「白雨コレクション行かない?」
僕はこう答えた。「あれはすばらしいよ、あまりすばらしいので一気に見ると疲れてしまうから、休み休み見たほうがい。でも僕はもう一度見てるし、ところで九年庵行かない?明日までだから。」
友達Hはちょっと驚き、しかもかなり渋っていたが、結局いっしょに行ってもらうことになった。

彼がいやがっているのは、わけがあった。九年庵には何度か行ったことがあって、県内外からものすごく人が来るのに交通規制をかけていないから、渋滞がひどくて大変なのだという。
さらに彼はたたみかける。「前にスペインのアルハンブラ宮殿に行ったことがあるんだけど。最初、夕方着いて、中を見たらがらがらでラッキーと思って入ろうとしたら、もう、今日の入場は終わり、入りたければ明日の朝来い、っていうわけ。翌朝行ってみたら入場券を手に入れる長い行列ができていたけど、そこに並んで手に入れてみたら入場が午後3時と書いてある。それまでの時間はどうぞご自由にってことで、一日あの周辺をうろいろして、午後3時ご入場。ただ、中はゆったりとしていて、落ち着いて見ることができたんだよ。

一方で昔のディズニーランドは、入場できないことないけどそのかわり中でどれくらい待っても知らないよ、というやり方だった。その後変わったけど。アルハンブラかディズニーランドか、どっちかなんだよ、世間は。ところが九年庵は行くのに大渋滞。前に行ったときは中島みゆきのテープをもっていったんだけど、「地上の星」を最後まで覚えてしまったくらい。そして、やっとついたと思って九年庵の中に入ると、「立ち止まらないでください。」という大音量のスピーカ。まるで「大阪万博の月の石」なんだよ。はっきしいっていやだ。」

彼とのつき合いは長いが、わりと思い込みが激しいタイプ。そこをぜひともと頼んだ。

「行くのなら、朝だな、朝8時出発、それでもいいなら行こう。」 これが彼の最終条件だった。

約束どおり朝8時に家を出て、九年庵に向かった。道は朝早いだけあってスムーズ、そして、神埼町内に入ったら、交通整理が出ている。わき道に入れということのよう。
「前と道が違う。交通整理はじめたんだ。」意外そうに彼がつぶやいた。

指示どおり進んでいったらほどなく駐車場に着いた。そこから、シャトルバスが出ているという。
「これも前はなかった。」彼が言う。そのシャトルバスに乗り、会場近くの本部まで行った。
「おお!」彼が驚いた。そこには「入場整理券配布場所」と書かれたテントがあったのだ。

本部テントでは、入園整理券が配られている。僕らは667番と8番。もらった説明書には、「待ち時間表示を確認して、自分の整理番号の200番ほど前の番号がアナウンスされたら待機場所に集合してください。」と書いてある。

すばらしいじゃないの。

まだそんなに人が多くなかったので、ほとんど待つことなく僕らは九年庵に入った。
庵内はさすがに混みあっている。ただ、大音量のスピーカはなく、その代わり、いい写真のスポットでお客さんの代わりにシャッターを押している人がいる。なんと佐賀県の腕章をしている。

「混み合っているとき、誰かにシャッターを押すのを頼んで、やってもらっているとそれだけでもけっこう時間を取ります。しかも、お互い取り合ったりしているとなおさらです。だから、自分が押すようにしているんです。」

前に比べていろんな意味でスムーズに人を誘導しているって感じがするんですが、こういうシステムって誰が考えたんですか?

「うちにハウステンボスで働いていた経験のある職員がいましてね、彼が整理券だとかそういうことを含めて考えてくれたんですよ。」

友達Hは、もう驚きはしなかった。感心しきりだった。

新しいことをはじめるときは何かと反対がある。待ち時間を減らせば、お客様が買い物をする時間が減る、という意見があったり、庵の敷地の中にバリアフリーのために仮設道をつけたところ、景観が悪くなったという意見が来たりとなかなか大変だったようだ。ただ、そういうときに救われるのはお客様のひとこと。あるとき、車椅子の女性が「九年庵は見ることができないとあきらめていました。みることができるなんて夢のよう。」と言ってくれて、それでまた、担当の職員たちはがんばり続けた。

もう九年庵の公開時期は終わった。でも、仁比山神社の紅葉はまだこれから。

今年は、あまり全国的にはいい紅葉が見られようだが、ここのはきれい。

友達Hは来週の週末も行くとはりきっている。

ふるかわ 拝

平成15年11月18日(火)
第026号「はなわ と チョコレート」


先週の日曜日は東京佐賀県人会総会だった。主催はもちろん、東京佐賀県人会。こういう県人会はだいたいどこの県にもあるが、東京佐賀県人会は初代会長が大隈重信公という由緒あるもの。その年に一度の総会に僕が呼ばれたのだった。呼ばれた人はほかにもいたが、今年初めてゲストで登場したのが はなわ さん だった。

呼ぼうと言ったのは東京佐賀県人会の執行部の方々。だいたいが60から70歳代くらいなので、はなわさんの曲「佐賀県」を聞いたことがあるだけでもびっくりだし、また、これを聞いて「呼ぼう」というイカシタ判断をしていただくとは思わなかった。

ともかくもはなわさんは来た。来るということを聞いて、ぜひしたかったことがあった。「けじめ」である。「佐賀県」の曲が出て以来、いろんな形で僕なりのメッセージを伝えてはきていたが、どこかで佐賀県とはなわさんの関係を整理しておきたかった。

春先に出た曲のけじめがなぜ秋の終わりになったのか、それは一本の電話からだった。

夏ごろだったか、電話が秘書課にかかってきた。知り合いの子どもが佐賀県から他県に転校したところ、佐賀県から来た、というのでいじめられ、学校に行きたくない、と言っているという内容だった。どうしようかという議論を何度もした。「だから佐賀県という曲を聴くのはやめてください」ということができるだろうか。ここまで「佐賀県」という曲が広まっている以上、県がそういうことを言っても無理だろう。
そもそも、その時点ではすでに「佐賀県」の曲はオリコンのチャートからは消えていて、すでにカラオケの世界に移っている。カラオケから消せということもできない。

一方、議会では、「県ははなわに感謝状を出すべきではないか」という質問が出ていて、僕は前向きに検討すると答えていた。県に来る電話やメール、手紙の多くは、この曲を支持するものだった。同じ転校にしても、転校したら「佐賀県から来た」というので人気者になった、というメールもあった。

当時、県としては、はなわさんが夏に来るイベントのときにでも、感謝状じゃまじめすぎるから、吉野ヶ里大使にお願いしようか、とかそういう話をしていた。

ところがこの一本の電話によって、検討がぴたっと止まってしまったのだった。

それを再開させたのが、東京佐賀県人会にはなわさんが来るというニュースだった。
なんだかもやもやしているものをここで整理してしまおう。何度となく、広報セクションと議論をして、この県人会の場でお互いにエールの交換をする、ということにしたらどうだ、ということになった。

はなわさんが佐賀県に感謝状を出す。佐賀県が、ではない。はなわさんは実は佐賀県が嫌いでもなんでもなく、佐賀県に感謝している、というメッセージを出そう、そのほうがおもしろいし、学校でつらい思いをしているかもしれないお子さんに対しても、何らかのプラスのメッセージとして伝わるのではないかと思った。

まず、全国紙(首都圏を対象)に、佐賀県の広告として、はなわさんの佐賀県への感謝状を載せた。同時に東京佐賀県人会総会の告知もした。おもしろいように反応が来た。去年の総会参加者は300人。今年はそれが600人までに膨れ上がった。

はなわさんが出す感謝状は、いかにも役所っぽいものにしてあった。そして、それを受け取ったら今度はこっちがはなわさんにメッセージを返そう。それは、佐賀県民を代表して、はなわさんに期待しながら、それでもこの曲に寄せる県民のある種複雑な感情を入れ込もう、ということで替え歌を作り、それをはなわさんに渡す、しかも、はなわさんにベースを弾いてもらいながら、それを僕が歌って渡す、という趣向にしたのだった。

日曜日当日、はなわさんは見事にやってのけてくれた。会場を埋めた600人の県人会の会員も、それを取材に来てもらってた30人にも及ぶ芸能レポータや記者の方々も、意図するところは汲み取っていただけたのではないかという気がした。


月曜日の朝、「ズームインSUPER」に始まり、多くの局で、また、多くの新聞で「はなわ、佐賀県に感謝状!」という記事が流れたが、その背景にはこういう流れがあったのだった。

あれっ? タイトルの 「はなわとチョコレート」ってなぜ?

それは次回ということで。

ふるかわ 拝

平成15年11月11日(火)
第025号「ミスター県庁」

川久保前副知事が亡くなられた。10月30日のことだった。
僕はそのとき、出張で 中国・遼寧省にいた。
緊急入院されたことは知っていた。小康状態が続いていると聞いていたが、亡くなられたと聞き、思わず空を仰いだ。遼寧省・ 瀋陽の空は乾いていて、その日、珍しく、この時期にしては暖かかった。

川久保さんは、佐賀県庁の人だった。昭和41年に佐賀県庁に入庁以来、昭和60年7月から2年9ヶ月の間、鳥栖の助役をしておられたことを唯一の例外としてあとは生涯県庁とともに歩まれた。
この10月9日に副知事の職を辞さ れ、しばらく休んでいただいた後、また、新しいところでご活躍いただく予定だった。
亡くなられたのは副知事を退職された20日後。もちろん新しい肩書きはなく、最後まで 県庁の人 だった。

日頃、追従を言う人ではなかった。私が就任してからも、さまざまな場面で端然として自論を吐かれた。
副知事としての最後の判断は引き際だった。「もう、よかでしょう、新しい人をどうですか。」
夏の終わりのある日のことだった。

手腕と人柄を請われ、副知事に就任されたその日から、自分が残っていると後に続く者が困ってしまう、そういうことを気にしておられた方だった。

10月27日、ダイエーが優勝して日本一になった。奥さんは大のダイエーファンだ。その日、川久保さんは翌日の定期検診治療のため、佐賀市内の娘さん宅で過ごしておられたが、城島のホームランでダイエーの優勝がほぼ固まったころ、自宅で一人 TV観戦されていた奥様に、お祝いの電話を入れられた。
娘さんは言う。「娘が言うのもなんですが、まるで恋人同士のやりとりのような電話だったんです。本当に仲のいい夫婦でした。」
その電話の直後、川久保さんは倒れられた。

この日、川久保さんは、いま整備中の歴史資料館が見たいと、建設現場に足を運ばれている。
歴史資料館は川久保さんが教育長時代にスタートさせたものだ。
娘さん宅にお戻りになられた川久保さんは、「ほんとにありがたい、自分は幸せ者だった」とおっしゃった。

副知事退任後、川久保さんと出納長を退任された鬼崎さんそれぞれご夫婦をお招きして、ささやかな慰労会をした。川久保さんはいつになく口数が多く、これまで歩んできた人生のことについて、お話をされた。

教育次長時代、病気で入院されていたとき、病室で毎日ネクタイをし、背広を着ておられたこと。きちんとして格好をしていないと気分がきちっとしないから、というのがその理由だった。
また、県庁にはじめて電子計算機を入れることになったときのこと。佐賀に本がなく、東京出張のときに本を買ってはくるものの意味不明で、まるで「解体新書」状態で仕事を進めていったこと。

何かをはき出すように、あの夜、川久保さんはいつになく饒舌だった。

思い出すことはさまざまあるが、県庁とともに歩み、そして人生を終えた川久保さんはある意味、県庁そのものの象徴だったかもしれない。
告別式の日、弔辞を読んでいただいた多くの方が川久保さんよりも年長だった。あらためて、早すぎた人生への決別を思った。

平成15年10月30日、巨星が、ひとつ墜ちた。

ふるかわ 拝

平成15年11月4日(火)
第024号「ロケット、映画、そして雷峰」

中国に行ってきた。遼寧省を訪問した。知事就任後初の外国訪問だったが、2泊3日でしかも3日目は朝7時にホテル発で帰国というただ帰るだけの日程で、実質的には1泊2日に近い、超強行軍となった。

遼寧省は、中国・東北部で、大連や瀋陽のあるところ。鞍山製鉄所や撫順の石炭なども有名である。

最近では、なんと言っても楊利偉氏。そう、大気圏外で中華料理を食べた初の宇宙飛行士が遼寧省の出身なのである。
また、こないだ山形市で開かれた「やまがた国際ドキュメンタリー映画祭」のグランプリ受賞作が「鉄西区」という9時間に及ぶ大作で、舞台が遼寧省の省都・瀋陽だった。

さらには、遼寧省といえば、雷峰の出身地。僕は今回の訪問のための予習でこの人のことを知った。

雷峰といえば、日本ではショートケーキにぴったりのいちごの品種名のことであるけれど、中国では「雷峰に学べ」と大々的に宣伝された人物のことである。共産主義中国以前の時代に小作農の息子として生まれ、孤児として育ち、辛酸をなめる貧しい生活の中で共産軍の兵士となった。自分が味わったひもじい思いを忘れることなく、人々を貧しさから救おうと心に近い、質素倹約を旨とし、人々を救おうとした。貯金や給料を災害救助に寄付したり、配給された食糧を困っている人々に分け与えたり、自己犠牲的な精神で個人レベルでできる最大限の支援をした篤志家だったのである。

雷峰自身は1962年に22歳で他界したが、後に「雷峰に学ぼう」という運動が巻き起こり、その名を中国全土に知らしめることになった。雷峰の善行にあやかって、多くの子供達が街の掃除や、重い荷物を持つ人の手伝いをしたというくらいである。

その雷峰の出身地が遼寧省なのであった。

薄遼寧省長との会談で、僕は、「遼寧省は雷峰を生んだ土地。いまなお、彼に学ぶものは大きい。」と挨拶した。

薄省長にいたく喜んでいただいた。「外国人のリーダーから雷峰のことを聞いたのははじめて。」という。
そのおかげもあって、話もいろいろ盛り上がり、次に日本に来るときにはぜひ佐賀県へとお招きし、その際には、有田焼の絵付けを、とお誘いした。
ではそのときは必ずうかがいます、という返事をいただいた。

食事も済み、ホテルに帰る車の中に電話がかかってきた。地元のテレビ局が、「ホテルにもどったらインタビューしたい。」という。

薄省長からの指示だった。地元テレビ局に命じて、(命じてというのがすごいでしょ!)「雷峰に学ぶものは大きいという認識をしている日本の県知事がいるから、インタビューせよ。」ということだったらしい。

ホテルのロビーで初の外国テレビインタビュー。もちろん僕は日本語だったが、同行してくれた青木麗子さんというスーパー通訳者のおかげで、きっと僕の発言以上にいい中国語になって、瀋陽の人たちに届いたと思う。

こんなそんなであわただしいながらも充実した訪問となったと思う。

中国の発展は広州や上海といった沿海部が中心だとこれまでずっと思ってきたが、今回、瀋陽に行ってみて、しかも、在瀋陽日本総領事館(そう、あの有名な。すごい警戒でした。)の話を聞いても、遼寧省長の話を聞いても、実際にいろんな工場や会社を回ってみても、間違いなく、これからこの東北部は発展すると思う。

「佐賀県産のいちごやみかんを輸出するなら上海がいいです。ただ、企業進出するならこれからは東北部、とくに瀋陽はお勧めです。」と青木さんも言う。

遼寧省と佐賀県との新しい交流の1ページを開いた3日間だった。

ふるかわ 拝