2004年8月

平成16年8月31日(火)
第067号「ある領収書」

カンボジアで毎日朝から晩までぎっちりのスケジュールの中、時間ができたらぜひとも行きたいところがあった。ある仕立て屋さんのところだった。

前にもこのコラムに書いたのだけど、僕は夏の間の正装としてサファリスーツを着ている。2着持っているのだがそのうち1着は12年前にカンボジアで、もう1着は去年佐賀市内で作ったものだ(このことについては平成15年7月29日 第011号 上着を着ないということ参照)

そのうちのカンボジアで作った1着はプノンペンの銀座通りともいうべきモニヴォン通りにあるムンディアルテイラーというところのもので、当時、おじいさんの職人さんと僕が四苦八苦しながらコミュニケーションをとって作ったのだった。

その店がまだあるかどうか見てみたかった。そしてできれば12年前に比べていささか成長した僕の身体にぴったりのスーツをもう1着注文したかった。

今回、偶然、その店の前を通りかかり、店が健在であることは確認できたものの、そこに行ってスーツを注文することはできなかったまま最終日を迎えた。

最終日は、午前中はカンボジアトラストというカンボジアの身体障害者に義肢・装具を作って提供しているセンターを視察して意見交換し、お昼は、日本大使館を訪問し、高橋大使以下書記官2名を含めて食事をはさんでカンボジアの情勢やODAのありかた、またNGOの活動との役割分担の話などをした。そして次にプノンペンにいる日本の唯一の常駐のメディア機関である共同通信プノンペン支局に向かった。ところが支局長が時間がとれるのが1時間後だという。

ここでやっと時間がとれた。ぜひともあの仕立て屋に顔を出したい。12年ぶりの訪問に胸はどきどきだった。12年前に作ってもらったスーツの現物をもって店に向かった。

店は昔と少し変わった。こぎれいになっているし、従業員もミシンの数も増えていた。出てきたのは若い男の人だった。「12年前にこの店でスーツを作りました。これがそうです。これを作った人はまだいますか?」と僕は尋ねた。
その男の人は一月前にこの店で働き始めたばかりだという。奥にいる若い女の人を呼んできた。彼女はこの店のオーナーである女性の娘らしい。その娘さんはいった。
「そのおじいさんならもう亡くなりました。ずいぶん前のことです。でもこのお店にわざわざ顔を出していただいてうれしいです。」

僕の通訳がぼそっと言った。「10年経つとカンボジアではたいていの人は死んでますよ。」

その日でカンボジアを去らなければならない僕だったが、ぜひとも新しいものを1着作りたくなった。

こう提案した。

「いまから採寸してくれませんか。スーツを作りたいので。」

仕立て職人の男の人は「それはいいですが、いつ来られますか。」と聞いてきた。

僕は答えた。「それはわかりません。お金は今日払っておきます。だから領収書を下さい。僕かこの領収書を持ってきた人に出来上がったスーツを渡してほしいのですが。」
男の人は笑って言った。「わかりました。やりましょう。1年でもそれ以上でも。置いておきます。」
僕も言った。「1年でもそれ以上でも。どうかお願いします。」

変わったことはほかにもあった。あのときのおじいさんの職人さんはランニングシャツ姿で仕事していた。そして少しだけフランス語を話した。今回の若い職人さんはブルーのワイシャツを着ていた。そして少しだけ英語を話した。こういうところにも時代の変化が表れている。

もう店を去らなければならない時間になった。僕は店を出た。


だから今、僕の手元には一枚の領収書がある。それによれば出来上がりの予定日は9月3日になっている。

カンボジアのプノンペン市モニヴォン通り197番地の「MONDIAL TAILOR」。

カンボジアに行く予定のある方、できているかどうかぜひとも聞いてきていただけないか。


ふるかわ 拝

平成16年8月30日(月)
臨時増刊号 「いま大急ぎで振り返るスタディーツアー 」


8月22日(日) バンコクとLAN接続

NHKの「日曜討論」を終え、僕は成田空港に向かった。そしてバンコク行きの便に乗り、その日の夜に到着した。
ホテルは空港に隣り合ったアマリ・エアポート・ホテル。ここではLANケーブルがちゃんと各部屋に来ていて頼めば接続してくれる。
持ち込んだモバイルPCが大活躍。たまっていたメールの処理ができてとてもよかった。
出張先のホテルを決める場合、とくに海外の場合はブロードバンド接続がちゃんとできるかどうか、というのがいちばんのポイントになるなあ。これができるかできないか、で仕事の処理がぜんぜん違ってきてしまう。

もちろん、携帯電話を転送設定してあるし、秘書も一緒なので、電話での連絡は国内と同じように取ることができるから問題ないのだが、問題はメールである。たとえばホテルの部屋でうまく接続できなかった場合、ビジネスセンターに行ってインターネットを利用することになるのだが、たいていの場合、画面上の文字は読むことができるのだが、日本語を書くことができないPCがけっこう多い。
だから自分のPCを持ち込んでそこで接続できればそれがいちばんいいし、それがブロードバンドなら言うことない、というわけなのだ。

8月23日(月) TAIZOに行った

朝8時発のシェムリアップ行きのバンコックエアウェイズに乗りシェムリアップへ向かう。迎えに来てくれていた通訳の三浦さんと車に乗り込み、シェムリアップ市近郊にあるプラダック村にある武雄市出身のカメラマン一ノ瀬泰造のお墓に向かった。
シェムリアップはアンコールワットのある街だ。そのアンコールワットはずっとクメール・ルージュが支配していて、なかなか一般の人々が近づくことができるものではなかった。
30年前、一の瀬泰造は、なんとかそのアンコールワットの一番乗りを果そうとし、それが果せず、クメール・ルージュにつかまり処刑された。遺骨はその後ご両親の手によって日本に運ばれたが、分骨されたものが現地に残され、お墓ができている。

そこには小さな小屋もあって、そこには一ノ瀬泰造に関する本や落書き帖があり、現地のかたが管理してくれている。
「地球の歩き方」に載っているわけではない、こういうところにある落書き帖に毎日数人の方の書き込みがあるのを見て驚いた。
お昼に先に到着していた本隊に合流し、一ノ瀬泰造がよく食事をとっていたお店で昼食を取ったあと、泰造の助手をしていたカンボジア人(すでに死去)のご夫人が校長先生を勤めているバンテアイ・チャ小学校に向かった。
先生に対し、一行を代表してごあいさつ申し上げ、泰造の死後30年経って、彼のことがいろいろと若い世代にも伝わっている、そんな話を申し上げた。「泰造」という言葉を聞いただけで、校長先生の眼から涙があふれはじめ、しばしとまらなかった。
この学校には近くの子どもたちが通っているが、建物も先生も足りないので授業は二部制。午前と午後で別の子どもたちが通ってきているという。

先日武雄市で行われた映画「TAIZO」の上映会には3000人を超える方々に来ていただいた。おかげで主催者の手元には若干の利益が出た。主催者では、その利益をカンボジアのために還元したい、できれば泰造と縁のある、学校の改築にでも使っていただければということでそのプロジェクトを進めている奥山和由さんにお金が預けられた。
もうすぐそのお金が届くはずですよ、ということがその場で校長先生に伝えられた。
そこで聞いた話だが、この近くにTAIZO小学校という学校があるらしい。
一ノ瀬泰造と関係があるのかないのか。いちど調べてみないといけない。
夕方、シェムリアップから空路プノンペンに入った。

8月24日(火) プノンペンの変化

プノンペンの街は平和の配当を十分に受けていた。

・窓ガラスがない建物がほとんどない
・ごみが減っている
・路上に椅子を出しているカフェ風なレストランが次々とオープンしている
・英語の看板が増えた(昔はロシア語とフランス語)
・屋台の箸が割り箸になった(昔は木の箸の使いまわし)

ということを見るだけでもこの12年の変わりようがわかる。

この日はプレイベン州リング村にある「カンボジア日本友好学園(中学校と高校に相当)」に向けて出発。日本の援助でできた「きずな橋」(現地でもキズナと発音されている)を通り、少し遠回りながらも6時間かけて現地に到着した。
ここで歓迎式典や意見交換をした。

この村には電気はない。水道もない。そういう中で試験を受け、子どもたちは入学してきていて、遠いところの子どもは50キロ先から来ているという。もちろん毎日通えないので、子どもたちは自分で家を作ってそこで暮らしている。
やしの葉と竹を組み合わせて作った家にひとりか二人で住んでいて、ランプの光で勉強している。
ランプの光の向こうに張ってある積分の公式がとても輝いて見えた。

夜は交流会。お互いに歌や踊りを披露、いつ果てるともしれないお祭りとなった。電気楽器を使わず、地元の太鼓、木琴、笛、二胡で奏でる音楽は太古の昔もかくあるらん、というもので月明かりのもとで踊り明かした。

たとえはちょっとおかしいが、モーリス・センダック作の「かいじゅうたちのいるところ」という絵本に出てくるお祭りのようだった。

8月25日(水) リング村で

前夜は学校内に分宿した。朝は村の市場に出かけてそれぞれ朝食。そしてその後、僕は生徒相手に一時間授業をした。

「世界に眼を向けよう、勉強しよう、学校に行こう」ということを訴えた。

「太陽はどっちから出る?」
「ひがしー」
「沈むのは?」
「にしー」
「動いているのは太陽?それとも地球?」
「地球!」
「地球が動いているように見える?」
「見えない」
「じゃあなぜ地球が動いているって言ったの?」
「学校で習った」

そこがポイントだった。身体で感じることとは違うことが世の中にはあることをわかってほしかった。

お昼には日本人が作った日本風カレーとカンボジアの人たちが作った地元料理をお互いに食べあった。生徒たちの弁当も食べさせてもらった。とびきりのおごちそうだったと思う。生徒たちの弁当の中に入っているお米はお世辞にもいいお米とはいえないものだったがそういうくらしをしていながらも、遠来の客をもてなそうという気持ちを痛いほど感じてしまった。

8月26日(木) JICA訪問

JICAを訪問した。プノンペンの水道局の事業所も訪問させてもらい、お話を聞いたところ、プノンペンの水道局の有収率は83%、日本の平均的なそれよりも上だった。これも支援のおかげだという。いまやプノンペンの水道局から配水されている水の品質はそのまま飲んでも大丈夫というレベルだということだった。

JICAの方の話によれば、いまのカンボジアでは実は地雷による死者よりも交通事故による死者の方が多いらしい。
去年はじめて交通事故による死者が地雷による死者を上回ったとのことで、その意味でもカンボジアは新しい段階に入ったといえるだろう。たしかに僕がアフリカのアンゴラに行ってたころもそういわれた。アフリカで外国人滞在者がいちばん多い病気・事故は病気は風邪、事故は交通事故らしい。マラリアにかかったり、ライオンに襲われたりというのはそんなにない、という話だった。

その日、国立プレアクリアプ農業大学(大学校という感じのところで大学までは行ってなかった)には今年の三月まで佐賀大学におられた芝山先生がシニアボランティアで行っておられて、久々にお眼にかかり、この国の農業について話をしていただいた。この学校の生徒は政府機関への志望者が多いのだが、最近は公務員の採用が少ないということなどこちらと共通だった。

ところでJICAの方からシニアボランティアもそうらしいが、海外青年協力隊に応募した人が落とされる一番多い理由を教えてもらった。
答えは「栄養失調」らしい。もちろんカロリーが足りないということではなく、偏食による栄養不足だそうだ。

多くの若者がこれでアウトになるというから馬鹿にしたものではないらしい。栄養状態の悪い地域に一定期間暮らすということになるとまずそのことが問題になるのだという。

8月27日(金) 対外協力は三位一体と同じ
  
カンボジアで身体障害者の義肢・装具を作る資格をとらせるための専門学校とその資格を生かした実際のリハビリテーションをやっているカンボジアトラストというところに行った。ここには日本人ボランティアの堤さんという人がいた。
ここも含めて今回カンボジアで会った日本人ボランティアは全員女性だった。
今回のスタディツアーそのものは男女半々だがこういう世界における女性上位を感じる。
お昼をはさんで日本大使館を表敬訪問し、大使からカンボジア情勢その他のお話をいただいた。
ODAの必要性というものを日本のメディアにご理解いただくにはどうしたらいいのだろうか、というような話をされておられた。
ODAも、また今回の活動のような草の根のNGOの活動も、カンボジアにとっては両方必要なのだと僕は思うので、その点を申し上げた。どちらかが必要ということではない。政府でなければ道路整備はできないし、逆にきめこまやかな地域的な支援活動はむしろ政府とは関係なく行ったほうがいいこともある。

なんのことはない。三位一体の改革と同じことなのだ。
なんでも自治体がやれる、できる、というわけではない。でも自治体が責任をもってやったほうが住民の立場からすると意見もいいやすく声も届きやすい、ということでいい、という分野もまた存在する。
どちらも、お互いの役割分担の中でやっていきましょう、ということなのだ。
プノンペンの地で三位一体のことを考えるとは思わなかった。

そう、帰国の日が来ていた。この日の夕方、プノンペン空港を発った。

8月28日(土) 最後に

今回のツアーは、とてもすばらしい内容とメンバーだった。現地で支援してくださったカンボジア人のスタッフを含め、誰が欠けていてもこんなに成功しなかったのではないだろうか、と思う。
このツアーの内容のハードさは他には例を見ない。事前研修も相当こなし、これからは事後の研修もある。
団員15名がそれぞれ感じるところでぜひとも国際協力に取り組んでほしい。

最後にいつも僕がしている話をして終わりたい。

僕の属している地球市民の会での話だ。
この地球市民の会はタイの子どもたちに奨学金を出したりしている、佐賀市に本部を持つ団体だ。

その地球市民の会の、ある会員の話である。

その会員が以前奨学金を出していた少年、というか元・少年から手紙が来た。彼はその奨学金のおかげで学校に行き、その後、IT関係の企業に就職して、今度台湾の工場に勤めることになったというものだった。
その会員は彼に会いに台湾に行った。昔を懐かしみ、またこれからの夢を語りながら、食事をした。その中で家族の話が出た。彼には弟がいる。その弟が今度高校に進むことになった、ということだった。
その会員は「じゃあ、また奨学金出させてよ」と軽い気持ちで言った。

ところが、彼から帰ってきた答えはこうだった。

「あなたのおかげで私はこうやって、学校を出て、台湾に来ました。おかげでタイにいるのと比べてたくさんの収入を得られるようになりました。今度は私が弟の面倒を見ます。そして弟も学校を出たら、また自分で仕事を見つけてゆけるようになると思います。あなたの蒔いてくれた種がこうして育っているということなんです」

支援をする、というのはこういうことなのだと思う。自立していくことができるようにするために、そっと何か後から背中を支えるような、そしていつのまにか背中を押す手が離れていても、気づかずに一人で歩けるようになっているような、そういう何かをぜひともやっていきたい、そう強く願う。


ふるかわ 拝

平成16年8月24日(火)
第066号「映画先読み ターンレフト ターンライト」

去年の9月9日に長崎で日韓知事会議が開かれた。そのときの佐賀県知事としての挨拶はこの週刊yasushiにも収められているけれど、その中で僕は「冬のソナタ」のことに触れた。去年の9月、まだ冬のソナタはブームではなかったけれど、韓国での人気ぶりは知っていたし、衛星放送で毎週見ていたのだった。時代をちょっと先読みしていた感じでちょっとうれしかった。

実は冬のソナタの前に「秋の童話」(※1)というドラマもあった。これはNHKの衛星テレビじゃなくて、BS日テレというマニアックな局でやっていたと思う。僕もなんかのときに1度か2度見た。今やればあれもヒットするのではないだろうか。

ときどきアジアの街に出かけては映画の先読みをするのが愉しみのひとつである僕としては今回もひとつおすすめしたい映画がある。「ターンレフト ターンライト」(※2)という香港映画だ。

この秋新宿シネマミラノほかで公開が始まるという。金城武とジジ・リョンという女優が織りなすコミカルラブロマンス映画。僕はこの映画を1年以上前に香港か台湾かで観た。とてもおもしろく、映像もきれいで、ストーリもシンプルでいい映画だった。
ワーナーブラザーズ映画が中国語圏の映画にはじめて出資したということでも注目を受けた映画ではあるけれど、脚本がとにかくいい。ぜひ観てほしいな。中国語でのタイトルは「向左走・向右走」だった。

この映画、もともとは絵本が原作。「Separate Ways」というタイトルだったと思う。日本語訳も出ていてタイトルは「君のいる場所」(小学館)。原作はイラストっぽい感じでさらりと書いてあった気がする。

ちなみにいまこの原稿を書いている僕のPCの壁紙はこの映画を観て以来、ずっとジジ・リョンのまま。

この秋、ぜひともご注目あれ。


ふるかわ 拝

※1「秋の童話」・・・アジア各国で大ブレイク中の韓国ドラマ

※2「ターンレフト ターンライト」・・・国際的に活躍する金城武の待望の新作は、アンディ・ラウ主演でヒットした「Needing You」のジョニー・トーとワイ・カーファイの名コンビが贈るラブストーリー。ヒロインはアジアでトップ人気を誇るジジ・リョン。2004年秋 シネマミラノほか全国ロードショー。

臨時増刊号 「NHK番組『日曜討論』レポート」


2004年8月22日(日曜日) 午前9:00〜10:00NHK総合テレビ

「日曜討論」に出演して

「自治体トップに問う 地方をどう改革するか」 
(岩手県知事)増田 ェ也氏
 (佐賀県知事)古川  康氏
   (埼玉県志木市長)穂坂 邦夫氏
(経済財政諮問会議議員・大阪大学教授)本間 正明氏
  (東京大学教授)神野 直彦氏

     (NHK解説委員)影山日出夫氏
■■■

〜番組の中で伝えきれなかったこと〜 編

日曜討論は生番組で赤坂プリンスホテルの近くにある千代田放送会館というところにスタジオがある。
一人当たりの発言時間は1分がメド。テーブルの真ん中にランプがあって、発言を始めて50秒経つとランプが点滅するようになっている。
5人のゲストがいて、司会の言葉もあるし、資料の説明もあるので、だいたいひとり10分くらいの持ち時間になる。
こういう番組に詳しい友達にアドバイスを求めた。

1 結論を先に言うこと。
2 できるだけ実例でものを言うこと。
3 くどくど解説をしないこと。
4 えらそうにしないこと。
5 できればいいたいことをまとめておいて順番付けをしておくとよい。

なるほどね。
そこで言いたいことを10項目準備しておいた。

実際に発言できたのは5項目。まあ、そんなもんかな。
以下では発言できなかったことのうちどうしてもというもののエッセンスをお伝えしたい。

Q1 都市部の自治体は努力しているのに町村部は努力が足りないのでは?

A1 椅子の話をしたいと思います。県内49市町村を回って対話集会をしました。体育館みたいなところでやりますから椅子の出し入れが必要になります。10を越える町や村では、その集会が終わった後、何もいわなくても、参加者が自分で椅子を片付けてくれます。自分でできることは自分で、ということの表れだと思います。集落内の道路や水路の管理も自分たちでできることは自分たちでやっています。ただ、問題はもう人が減ってそういうことができる人そのものが減ってきているということなのです。だから私は農山村のほうが依存意識が強いとは思いません。それ以上に財政的に困っているということではないかと思います。

Q2 地方に自由な財源を任せると箱物と道路ばかり作るのでは?

A2 むしろ逆でしょう。というのもいま地方では地方財政の全体計画の中で予定されているだけの箱物や道路などの建設事業をやっていないのです。計画額に対して実際にやっている額は6兆円少ないです。こういう状態なのに、どんどんいらない箱物や道路を作ることになるとは思えません。では、その6兆円はどこに消えているのか。
佐賀県内で調べてみた限りでは、その分のお金はたとえば乳幼児医療費助成に使われています。箱物を作らずに福祉に回っているというのが正しい理解だと思います。

Q3 税源移譲すると佐賀県のような地域はかえって困るのでは?

A3 だから、佐賀県としては、東京などに偏っている法人関係税を国税にして、地域的な偏りのない消費税を地方の税にするという国税と地方税の交換を提案しています。県民一人当たりに直すと、県内総生産の格差は最大の東京と最小の沖縄で2:1です。ところが法人関係税収をみてみるとそれが7:1になっています。経済活動そのものがある程度違うのは仕方ないにしても、7:1はあんまりではないでしょうか。
その点、消費税は東京:沖縄 で2:1 です。こういう偏りのない税をこれからの地方税の中核にしていくべきだと思います。


〜 どうでもいいこと 編〜

「日曜討論」は本当に生番組だ。番組の担当の方から連絡があり、今週の番組に出てくれないか、といわれたのが月曜日の午前10時くらいで、控えめながらも「11時までにご返事をいただければ」といわれ、悩んだ末受けることにした。

全国ネットの番組に出たのは最近でははなわ関連で「ズームインスーパー」に出たのが最後だったので、ちょっとそれとは違うぞ、と気合が入った。

昨日、行きつけのところで髪を切ってもらい、夏の間、上着を着ないという「夏のエコスタイル」を進めている者として、スーツで出るわけにはいかないので自分ではお気に入りのバーバリの開襟シャツ(アンダーシャツはヘインズ)、ボトムスはやはりバーバリの麻のパンツに決めて、飛行機に載せて大事に東京に持ってきたのだった。

打ち合わせはとても簡単。木曜日くらいに電話で10分くらいやっただけ。今日は8時40分にスタジオ入りして、メイクをした後、担当から「最初だけはカメラ目線でご挨拶をお願いします。」という感じのことをいくつか言われただけで内容についての打ち合わせはまったくない。

だから、何がどうふられるか、まったくわからない状態で番組が始まる。

話したいことを準備していても、そのことについてふってもらわないと話せないというのがつらいところだ。

ちなみに机の上にある飲み物はウーロン茶だった。


ふるかわ 拝

平成16年8月17日(火)
第065号「パラグアイ」

オリンピックのサッカー日本代表の初戦は残念ながらパラグアイに3−4で敗れた。

パラグアイのサッカーといえば、こないだのワールドカップのときも無敵のゴールキーパーであるチラベルト(本当は発音は「チラベル」)がいて、注目を浴びたが、当時僕がおもしろいと思ったのは、パラグアイという国そのものだった。

そのころパラグアイのことを調べていたら、いい国に思えてきたのだった。

たとえば、仕事時間の短さ。

すべての会社がそうだということはないと思うのだが、当時調べたところでは官庁の執務時間は月曜日から金曜日までは朝7時からお昼12時まで。午後は休み。その代わりというとなんだが土曜日は7時から11時30分までだった。いまも半日勤務ということには変わりはないらしい。

銀行に至っては、月曜日から金曜日までの午前7時から午前11時までだという。おいおいって感じだがいくら暑いからといってシンガポールではこうはいかないだろう。

実は日本でもかつては夏の間は半ドンだった。大正11年の閣議決定で「夏の土用十八日間は午前中勤務のみ」とされ、午後は退庁となっていたのだった。
いつなくなったかと思って調べてみたら、昭和22年。戦前と戦後ってこういうことひとつをとっても違うんだよな。

こういういい国なら移住できないかと思って調べてみたら、これがまた泣ける。
以下はパラグアイ大使館のHP
http://www.embassy-avenue.jp/paraguay/index-j.htmから。

Q. もしパラグアイに移住したい場合には何が必要ですか?


A. パラグアイに移住したい場合は最初に次のことをする必要があります。

(1) まず大使館に手紙を書いて下さい。その手紙の中でなぜパラグアイに移住したいのか、日本での職業は何か、またパラグアイで何をしようと思っているのかなどを説明して下さい。また、パラグアイに友人や親戚がいるのならその人達の名前、住所、どの都市にいつから住んでいるのかなどできるだけ詳しく書いて送って下さい。
(2) もし、家族も一緒に行くのなら、その人々との関係(妻、夫、子供など)、年令、日本で行っていたこと(仕事、学校)も、書いて下さい。
(3) 手紙に申請人本人と一緒に行く人全員のパスポートか身分を証明できるようなもののコピーを添付して下さい。

これらを全て受け取った後大使館から次にどのような手続きをすればよいのか説明した手紙を送ります。


なんかいいでしょ。えらぶってないし。

数年前まではこの部分、

永住権を取得するためには、外務省及びパラグアイ領事館が認証した次の書類が必要です。

1 戸籍謄本
2 警察の無犯罪証明書
3 健康診断書
4 健康であることの証明書
 

と書いてあった。

これなら取れそうではないか。

かつて岡林洋一という投手が90年代ヤクルトにいて活躍したことがあった。彼がパラグアイの出身だった。稲尾やスタンカの時代と違い、分業体制の整った野球が確立された時代に岡林選手はプロ野球選手だったのだが、92年の日本シリーズでは彼は3試合完投した。しかもそのうちの2試合は延長戦だった。

プロの選手としての一番の思い出はと聞かれ、「10年間の練習に悔いはない」と答えたように、練習こそが思い出だったという。

パラグアイとの戦いを観ながら、ぼおっとそんな選手がいたことを思い出していた。


ふるかわ 拝

平成16年8月10日(火)
第064号「オリンピックが来ると・・・」


もうすぐオリンピックが始まる。かつて長野県で暮らしていたころ、1998年の長野オリンピックの招致運動というのが行われていた。僕は直接その仕事にかかわったわけではなかったが、当時企画の仕事をしていたこともあって、いろんな話を聞くこともあれば、いろんな提案をすることもあった。

提案したことはほとんど採用されなかったと思う。たとえば、今はあたりまえになったが当時はあまり一般化してなかった「環境に配慮したオリンピックということなのだから泊まるホテルで取り替えてほしいタオルはバスタブの中に入れ、それ以外のものは取り替えなくていいということを統一的にやったらどうか」というものやオリンピックのテーマを「WA」にしたらどうかというものなど。

「WA」というのは返す返すももったいなかったと思う。「WA」はまず「和」である。大和の国そのものだし、十七条の憲法第一条にも「和を以って貴しと為す」とある。また、環境との調和、そして平和を希求する催しとしてもぴったりではないか。
いまでもちょっと残念に思う。


それはさておきそういうオリンピック関係の仕事がまわりにあった中で学んだ一番のことは「オリンピックというのは平和の運動であって、その区切りとしての4年間の期間のことをオリンピアードという、その期間の終わりに大会を開くことになっていて、それがオリンピック競技大会なのだ」ということだった。オリンピアードは期間だから、たとえば第6回オリンピアード競技大会は中止になっている(予定開催都市はベルリン)。第12回(東京)、第13回(ロンドン)もそうだ。競技大会が開かれなくてもその回は進行していく。その点、冬のオリンピックはやらなければカウントしないことになっている。

というわけで」と今回のアテネ大会は「第28回オリンピック競技大会」と日本語には訳してあるが、英語の正式名称に「Games of the XXVIII Olympiad 」とあるように、そういうことなのである。

ところで、戦前の東京オリンピックのとき、オリンピックを所管していたのは実は文部省ではなかった。
内務省から分かれたばかりの厚生省だった。それはなぜ?

ラジオ体操とも関係がある。そもそもなぜラジオ体操には簡易保険がかかわっているのだろう。それはラジオ体操は逓信省簡易保険局が制定したからなのだが、そういう話はまた今度。


ふるかわ 拝

平成16年8月3日(火)
第063号「がんばれ!ニッポン」


といってもオリンピックのことじゃない。

BSEのことだ。

アメリカ産の牛肉が国内で売られなくなって久しい。米国政府は日本国政府に輸入再開について全頭検査を条件とするのをやめるよう要求しているが、日本としてはそうはいかん、と抵抗しているらしい。

そこを応援したい、ということなのだ。

もともとBSEはヨーロッパが発祥の地。そこにおいてはEUが30ヶ月齢以上の牛を全頭検査していて、平成13年に日本で発生したときも政府としてそういう検査を実施することにしていた。

ところがそうなると30ヶ月齢未満の牛は全頭検査をしないということになる。
となると市場に検査を受けた牛の肉と検査を受けていない牛の肉が市場に出回ることになり、消費者の不安が解消されない、というので全頭検査に踏み切った。平成13年10月18日のことだった。

ただ、誤解を招かないように言っておけば、かりにBSEにかかった牛であっても危険なパーツである脳などをきちんと取り除けばそれを牛肉として食べたとしても食品としては安全と言われている。

つまり、食べたら危ない部分は取り除くので、まずそれだけでも安全といえるのだが、さらにBSEにかかった牛の肉そのものを市場に流通させないことにしようというのが日本における規制の趣旨なのだ。

ではEUが30ヶ月齢以上の牛に限って全頭検査をしているのはなぜだろうか。

それは「BSEというのは異常プリオンという物質が蓄積することで発生すると言われているが、30ヶ月齢に満たない牛は蓄積量が少なく、検査をしても検出されないから」ということらしい。

アメリカもそう主張している。曰く「若い牛については、現在の検査方法では異常プリオンの検出はできないから全頭検査しても無駄。だから、全頭検査には科学的根拠がない。」

ところが、だ。

我が国ではこれまでに9頭の牛がBSE検査で陽性だったと判定されているが、そのうちの2頭は21ヶ月齢と23ヶ月齢。30ヶ月齢未満なのだ。

このことをアメリカはどう考えているのだろうか。

関係当局に聞いてもらったりいろいろしたところ、アメリカはどうも「あの2頭は実はBSEではないのではないか。」と思っているらしい。

たしかに、理論的には一定月齢以下の牛の場合には、異常プリオンの蓄積が足りないのでいまの検査方法では検出ができないということは理解できる。

でも、自分が認めたくないからといって、あれはBSEではないのではないか、というのはあんまりではないか。

いま、その2頭の脳を使ってマウスで本当にBSEかどうかの実験をしているとのこと。
がんばってきちんと結果をだしてほしいな。

それにつけてもアメリカは自分とこの牛肉を日本に売ることには必死なのに、日本の牛肉のアメリカへの輸入を認めていない。

理由は「日本はBSEの発生国だから」。

あのう、日本はアメリカよりもいくばくか(これは皮肉です)丁寧に検査していて、安全とされたものしか市場に流通していないのですが。


ふるかわ 拝