2005年2月

平成17年2月22日(火)
第092号  「『先生』と呼ばれて 」

いま、佐賀県では県立の福祉施設の見直しについて検討委員会が行われている。その最終報告の前段階とでもいうべき案が先日公表された。その中においては、今後、民間に経営を引き受けていただくほうがいいのではないか、というものや、地域移行が進んでいくとすれば、民間に施設の経営をお願いすることは難しいのではないかというものまで、さまざまな検討事項が書いてあって、十羽一からげにせず議論が交わされているところは評価していいと思う。

ということで先日、そのうちのいくつかの県立福祉施設を実際に見回ってきた。

県立の福祉施設にはたくさんの種類がある。乳児院もそうだし、救護施設と呼ばれる自力での生活が困難な方の施設、身体や知的障害者の生活施設や授産施設であるとか、なんせ種類は多い。僕が今回行ったのはそのうちの4施設だったが、それぞれの施設で現場の職員は工夫をしながら働いていた。

県立がいいか、民間がいいか。それぞれいいところがあるのだが、中には民間の方が利用者から見て優れているのではないかということもある。

たとえば、ある分野をとった場合、同種の民間施設では夕ごはんが夕方5時半から7時までなのに県立のその施設では5時から5時半までと1時間も短い。しかも、民間施設ではパン中心の食事にするのか、ごはんを食べる食事にするのかなどと選ぶことができるという。
入浴の時間帯についても、ある県立施設はお昼3時から5時までと夕食前に入浴が終わるが、民間施設では、自分で入浴できる人は7時から8時半まで利用できるようになっているという。

一方で、ある分野においては民間ではできない細やかなケアをしているという県立施設もある。結果的に、だろうが、その分野においては佐賀県内では民間は事業をしていないという。
経営的に見たときには県の一般財源を投入していて維持している施設であるわけだが、こういうものをどうしていくのか。民間にお願いすることとした場合に何がどう変わっていくのか、ということをよく見据えていく必要があるだろう。

また、民間に同じような施設があり、民間施設は支援費や措置費の範囲内で経営が成り立っているのに、県立施設は成り立っていないというものもある。県立施設として民間にはできない手厚いサービスを提供しているといえばそうだし、逆に、同じ状況にあり、同じような負担をしながらも民間施設を使っている人はそういう手厚いサービスを受けられないということになるわけで、県立施設の手厚さが県からの一般財源投入によってなされているものだとしたら、そこは不公平ではないのか、という議論も当然ありうることになる。

これからもいろんなかたちで議論を続けていきたい。

そんな中、ある言葉が気になった。民間施設でも同じかもしれないが、いくつかの施設で職員が「先生」と呼ばれているということだった。

施設の中でさまざまなケアとサポートをしてくれる職員を「先生」と呼んでくれる、その利用者の気持ちは大変うれしい。

でも、「先生」という言葉というのは全人格的な依存を意味する言葉ではないだろうか。

障害者の自立を支援する法律がいま国会に提出されているが、福祉サービスの「利用者」や障害者本人のことを意味する「当事者」の自立という観点からは「先生」という呼び名をできるだけしない、してもらわない、というのが必要なのではないか。

あちこちの高齢者や障害者の施設で暴行やセクシュアル・ハラスメントが起きている。教育現場でもしばしば起きている。それは、この「先生」とその「教え子」との間の独特の権力関係というものがひとつの原因となっているからだとはいえないだろうか。

しばらく前に刑務官による囚人の暴行が話題になったが、たしか刑務官も「先生」と呼ばれているのではではなかったか。

「先生」という言葉に、「すべてを消しさってしまうような危うさ」があってはいけない、と思った。

ふるかわ 拝

平成17年2月15日(火)
第091号  「個人情報とバレンタイン」

昭和30年代の「明星」だったか「平凡」だったか、要するに子ども向けの芸能雑誌を最近読むことがあった。そしたら「あこがれのスターのお宅訪問」みたいな記事があった。それ自体はそれほど驚かないのだが、びっくりしたのはそのスターの自宅の住所が書いてあったことだった。いまならとんでもないことだろうが当時はなんとも思わなかったということだろう。

個人情報をどうすべきか、というのは思わぬところでも問題になっている。

大学に勤務する友人の言によれば「期末試験の追試験の掲示の際に氏名を記入することはできなくなりました。氏名は除いて学籍番号だけを使って追試験の対象者を発表するのも、学内だと個人を特定できるのでダメなのだそうです。」とのこと。じゃあ、どうするのかというと、追試験をやるという掲示に「心配な人は担当の先生の所に聞きに来ること」って書くらしい。また、これは他の大学だが、授業料未納の呼び出しをかけるとき「右の者 授業料未納につき」とは書かず、単に呼び出しをかけるだけにしているという。個人情報保護のため、とのこと。どこの部署が呼び出したかは書いてあるというから、「経理」から呼び出されたら何のことはわかるだろうけど。

また、企業でいえばコールセンターは個人情報管理にとても厳しくて、オペレーションルームに入るときには写真撮影などによるデータ漏洩を防ぐため携帯電話の持ち込みが禁止されていると聞く。逆にそれくらい厳しくしておいていただけると安心ということもいえるだろう。

病院も個人情報管理に乗り出しているようだ。プライバシー保護のために病室に名札を出さないようにしているところもあると聞くし、ある病院ではどういう表記にするか、患者さんに聞いて決めているらしい。その病院では外来でも番号札にしたりしてとにかく名前を呼ばないようにしているらしいのだが、せっかくこれだけプライバシー保護に気を配っても高齢者にはかえって「名前で呼んでもらわないとピンと来ない」と不評という一面もあるという。

たしかに番号で呼ばれるというのはなあ。

そういえば、ポール・マッカートニーが以前来日したとき大麻所持でつかまって留置場かどっかに入れられたことがあった。そのときはポールとはいえ番号で呼ばれていたらしい。だから彼が知っている数すくない日本語のひとつがそのときの番号「ニジューバン」だという。

そのポール・マッカートニーがビートルス時代に作った作品に「僕が64歳になっても」(When I'm sixty-four)というのがあって、その中で「僕が64歳になっても、バレンタインデーにはワインを一瓶贈ってくれるかい?」という詞があった。彼の国では、バレンタインにはワインを贈るのか、と当時中学生だった僕はいたく感心したのだった。

そのポールも今や62歳。

みなさんはどんなバレンタインデーでしたか?

ふるかわ 拝

平成17年2月8日(火)
第090号  「なんとなく イヤだ」


ダボス会議というのがある。スイスのダボスというリゾート地に冬の時期に世界中からリーダたちが集まってする会議だ。今年のダボス会議には政治家でいえば、たとえばイギリスのブレア首相が来ていた。ダボス会議ではいろんなテーマが話し合われるが、あるセッションでは「アフリカの貧困をどうするか」ということがテーマだったようだ。そのセッションで、タンザニアのムカパ大統領がアフリカの子供をマラリアから守るためには、殺虫剤を塗った蚊帳がぜひとも必要という演説をしたところ、ひとりの参加者が発言を求めた。女優のシャロン・ストーンだった。「いまこの瞬間にもアフリカで子供たちが死んでいる、私は1万ドル寄付をするわ。賛同の方はすぐ立って」と参加者に寄付を呼びかけたのだった。

ニュースによればその呼びかけに多くの参加者が応じ、わずか数分のうちに100万ドル以上の寄付が決まったらしい。

いいニュースだし、美しい話なのだろうが、僕はなんとなくイヤだった。

アフリカはもちろん大変だ。でも、一本の映画で600万ドル稼ぐ女優の出演料の12秒ぶんの額をいきなり寄付すると言われて、はい、そうですか、では私もそうしましょう、という気にはなれない。なんかそういうのってちがうんじゃないかなと思ってしまうのだ。
「自分が正しいことをしているのだから、あなたもそうしなさい」。そのときの会場の映像ではそんなふうに見えた。「アメリカ人だなあ」と思った。

こんな話を聞いたことがある。

ある混雑した電車の中。一人のお年寄りが電車に乗り込んできた。座席が空いていなかったのでそのお年よりは座席の近くのバーをつかんだ。乗客は立たない。ほめられたものではないがよくある光景だ。ところがそのときは珍しいことが起きた。その様子を見ていたアメリカ人が「年寄りに席を譲れ!」と座席に座っている乗客たちをどなりつけ、次々に「立て」と言って回ったというのだ。なんとなく居心地の悪くなった乗客は席を立ったという。

たしかに年寄りが乗ってきても席も譲らないというのはなさけないことではある。

でも僕はなんか割り切れない。だからといってそのアメリカ人がやったことをほめたたえる気にはなれないのだ。自分が正しいと思ったら、相手の事情にかまうことなく、実力でそれを執行し、実現する。それを当たり前と思っている国と国民がいる、ということはあまり嬉しくない。

最近、出た本にこんなジョークがあるという。

アメリカ人と神様の違いは?

少なくとも神様は自分のことをアメリカ人だと思っていない。

ふるかわ 拝

平成17年2月1日(火)
第089号  「名月赤城山」


NHKの海老沢会長(当時)が辞任するときの気持ちを「赤城の山も今宵を限り、の心境」と言ったのが話題になっている。その是非はともかく、そもそも国定忠治のことを今の人はどこまで知っているのだろう。そう思って、「声に出して読みたい日本語」を引っ張り出してきて、そこに載っている「国定忠治 赤城山」の一節を僕がパーソナリティをつとめているラジオ番組で演じてみることにした。

しかし、出てくるのは忠治だけではない。子分の定八や厳鉄がいる。スタジオの中で相方を探したがディレクタのYは「私はお嫁に行ってないのでそういうことはできない」というし、その上司Nは「番組を監督する人間がいないわけには行かないし、そういうことがあると監督官庁の総務省から何か言われるかもしれない」と口を濁す。

結局、言い訳を考えそびれたwebmasに魔の手は延び、断るヒマもなく、僕が忠治を、彼女が定八と厳鉄をやることになり、練習してみた。

悪くはない、悪くはないのだが、困ったことが起きた。

この名月赤城山、要するに、忠治が幕府から関所破りの咎で追われる身となり、国定の村から子分ともども涙ながらはなればなれになるという状況だ(ちなみに国定忠治というのは本名じゃなく、国定村の忠治という意味)。

だいたいこんな感じ。

忠治 「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」

定八 「そう云や何だか嫌にさびしい気がしやすぜ。」

(雁の声)

巌鉄 「ああ、雁が鳴いて南の空に飛んで往かあ。」

・・・・・・
(中略)
・・・・・・

忠治 「心の向くまま足の向くままあても果たしもねえ旅へ立つのだ」
定八・巌鉄 「親分!」

(笛の音)

定八 「ああ、円蔵兄いが・・・・・・。」


なかなか泣かせるでしょ。ところがこれを演じるにどうしても「雁の声」と「笛の音」がいる。これがないと雰囲気がでないのだ。

僕はwebmasを見た。最初は「なんで私が・・・」と戸惑っていた彼女もいまや「定八さんはどういう気持ちでこのせりふを言ったのかしら。」と役作りに入っている。

勇気を出して僕は彼女に頼んでみた。

「悪かばってん、あんた、雁と笛の役ばしてくれん?」

さすがの温厚なwebmasもちょっとばかり怒ったようだった。ためらいがちにこう言った。

「できれば人の役がいいな。」

ということで結局のところ、僕がすべてをひとりでやったのだった。

ところで皆さん、ホントに国定忠治をどこまで知ってますか?


ふるかわ 拝