2007年11月

平成19年11月27日(火)
第231号「ars longa vita brevis」

先週唐津でお茶会があった。宗☆(ぎょうにんべにんに「扁」)流のお茶会で、僕はかつて長野県で宗☆流のお茶を習っていたこともあって、いまでもときどき顔を出させていただいている。

場所は近松寺(きんしょうじ)という小笠原家ゆかりのお寺。近松門左衛門の墓があるためにこの名前で呼ばれているという歴史あるお寺なのだが、ここの和尚様の御席に出たところ、どっしりとした皮鯨の唐津焼のお茶碗が出された。

これは?と思ってお尋ねしたらやはりそうだった。西岡小十先生のものだった。
小十先生は唐津焼の泰斗でいらした方だが昨年なくなられた。ずっしりとした厚みのある茶碗は、時代物のような風格さえあった。
僕が小さいころ住んでいた唐津市内の衣干山(「きぬぼしやま」のはずだが「きんぼしやま」としか発音してなかった)に窯があって、父親や叔父と一緒に焼き物を求めに行ったこともある。父親が粉引絵唐津の茶碗を、叔父が皿を買ったように思う。
その後、いろんなご事情があって唐津を去られ昨年他界されたとうかがっていたが、今回思いも寄らず作品に出会うことができた。

今年人間国宝になられた青磁の中島宏先生が「焼き物はこわい。火を通しているから何百年経ってももの自体は変わらない。『中島宏はこういうものしか作っていなかったのか』と思われることになるかもしれない。そういう評価に耐えるものを作らんば」とおっしゃっていたが、あらためて人生よりも作品生命のほうが長いことを感じた。

その長野県で習っていたお茶の先生も今年他界された。長野県の宗☆流の中心的な方だった。お弟子さんには比較的高齢の女性が多く、そのせいで教室はだいたいお昼だけ。夕方に習うのはほとんどの場合僕しかいなくて、贅沢なことに先生から一対一で教わっていた。
入門から小習、唐物、そして炭手前と進んでいくのだが、炭手前を始めたころに僕は東京に転勤になってしまい、先生ともそれ以来年賀状のやりとりになってしまっていた。ここ数年は年賀状も先生ご本人からではなく、ご子息からになっていた。ときどきご子息にお目にかかることはあったが、ご高齢とあって体調がよろしくないということは聞いていた。

今年、その先生の訃報が届いた。ある程度覚悟をしていたものの、やはりその報せがあると心に来るものがあって、時間をやりくりして告別式には参列した。

先日、そのご子息から連絡があった。どうしても会いたいということで僕が泊まっている東京のホテルのロビーに朝早く来られた。
何か手に提げておられる。
「実はこれを受け取ってもらえないかと思って」。こう切り出された。
「母が亡くなった後、遺品の整理をしているのですが、お茶の道具がなんせたくさんあります。自分はお茶をやらないもので、せっかくならそのご縁のあった人に少しでも分けることができればと思いましてお持ちしました」とおっしゃっている。
「これは自分が京都で買ってきたものなのです。人からもらったものだとお渡しにくいけれど、自分で買ったものだからどうかもらってください」。
強く言われ、ありがたくいただくことにした。

開いてみた。見覚えのある平茶碗だった。夏に先生が使っておられた茶碗だった。「息子が買ってきてくれたの」。先生はよくおっしゃっていた。
「息子はお茶をしないのよね。お茶をしない人はお茶碗しか買ってこないもんだから、お茶碗ばっかたまって」と笑っておっしゃりながらも、よく使っておられたいくつかの茶碗のひとつだった。先生に教えを乞うていたあのころのことがいちどきによみがえってきた。手元にあるお稽古帳を久々に紐解いてみた。昭和63年9月1日のところに「茶碗 京焼 清水卯一 青磁」と記してある。
この器である。
この茶碗を作られた清水卯一先生ももはやこの世にない。しかし、この茶碗はみずみずしささえ漂わせていた。

「ars longa vita brevis」(「芸術は永遠であり、人生は短い」)というラテン語のことわざを改めてかみしめた。

ところで、最近ミシュランで三ツ星のついた銀座の日本料理店「小十」。この「小十」には西岡小十先生の器がたくさんあってそれでこの店の名前がついたのだという。三ツ星の料理を佐賀県の器がしっかり支えているのだった。

ふるかわ 拝

平成19年11月20日(火)
第230号「福田総理にもうしあげたこと」

11月14日に総理官邸で行われた政府主催の全国知事会議の場において、僕は福田総理に対してこんな発言をした。テーマは農業。とくに米の減反政策についてだ。この会議の場で農業そのものについて発言をしたのは僕だけだった。がんばらんば!と思った。

佐賀県知事の古川康です。
この数字(フリップ)をご覧下さい。4.6%。これは、平成19年産米の過剰作付け率の数字です。予定されていた生産調整の面積を超えて現実には作付けがされています。全国33の県で過剰な作付けが行われています。
 
この4.6%の過剰な作付けが行われた結果どうなったか。
それが、この数字(フリップ)です。△11%。これは、去年に比べて低くなった農家の所得の減少割合です。つまり、去年に比べて農家の所得が11%低くなってしまったということを意味しています。10年間では約40%所得が減っています。
この会議が行われているこの官邸のホールの広さ(約330u)くらいの田んぼでお米を作ったとします。半年から1年かけてお米を作った結果の所得は15,000円くらいです。そういう状況まで来ています。

今、お米の市場に変化が起きています。
ちょっと前までは「量をめざすのではなく、質、すなわちできるだけおいしいお米を作れ」と言われてきました。でも、今ではおいしいお米が売れなくなってきています。
かつてのように、お家でお米を食べていた割合が減って、中食・外食の割合が増えてきました。コンビニエンスストアでおにぎりやお弁当を、そしてレストランでピラフやカレーライスを。そういう人が増えた結果、おいしいしいお米、というよりはむしろ、そこそこの値段で、そこそこの味を、というお米の方が売れやすくなってきているのです。
そうすると、農家としてはいきおい、売る量を増やさざるを得なくなってきます。その結果が、この4.6%という過剰な作付けになってきているのではないかと思います。しかも、この過剰作付けの割合は毎年増えてきているのです。

米が余っているんだから、ほかのを作ればいいじゃないか。そういう声も聞きます。おっしゃるとおりかもしれません。では米を作るのをやめてその代わり大豆を作ろう、ということにしましょう。米を転作して何かの作物を作る場合には「産地づくり交付金」という名前の交付金が交付されます。ところが、転作を進めれば進めるほど、つまり、大豆を作れば作るほどこの「産地づくり交付金」が増えるのか、というととそうではありません。あらかじめ決められた佐賀県の枠は変わりません。米の代わりに大豆を増やせば結果的に大豆に対する助成の単価が下がってしまいます。
 お米をやめて、大豆にしよう、そういう流れが大きなものになっていかないのは、こうしたところにも原因があるのではないかと思っています。

生産調整をしなければいけないという政府の方針に従って、自分のところは米を作るのを我慢して、減反に協力した。でも、そういう協力をしない人たちのおかげで、全体としては米の需給バランスが壊れてしまって、非常に価格が下がってしまうような、そういう状況になっています。

政府の示したところに沿って生産調整をする人と、自主・自立で自分の力で米の作付け面積を増やしてでも売っていこうとする人とでは、私は、行政の関わり合い方がちがってもよいのではないかと思います。
政府とともに、国とともに、農業をやってきた人達や地域、そしてまたこれからも、やっていこうという人たちや地域に、その信頼感を取り戻すためにも、私は、生産調整に協力している人や地域に対する産地づくり交付金の重点的な配分など、生産調整に協力している人や地域が納得できるような支援の対象としていただきたいと思います。


(時間がなくて言えなかった部分)
 
品目横断的経営安定対策の話をすると、農家の方は、最後には「わかったわかった」と言っていただきます。しかし、「わかったわかった」という言葉は、実は、わかってもらってるわけではありません。
本当にわかってもらった時は「わかりました」と言われます。「わかったわかった」と言うのは、「お前の言いたいことは聞いたから、もう説明をやめてくれ」と言う意味だったと思います。

「わかったわかった」ではなく、ただひと言、「わかりました」と言われる農業政策を、ぜひ福田総理のリーダーシップのもと展開していただきたいと心から願い、わたくしの発言とさせていただきます。


ふるかわ 拝

平成19年11月13日(火)
第229号   「但馬牛に劣っておらず」

「船場吉兆」でギフト用として売られていた「但馬牛」が実は佐賀産や鹿児島産の和牛を使っていたというニュースが先週明らかになった。

僕にとってショックだったのは農水省の調査に対し吉兆側が佐賀産や鹿児島産の和牛について「品質では但馬牛に劣っておらず、表示はそれでいいと思った」と釈明したことだ。

但馬牛が佐賀牛のいわばルーツだったというのは知っているが「そんなに但馬牛ってレベル高かったっけ」というのが僕の率直な感想だった。

ちなみにネットで但馬牛と検索するといちばん上に「但馬屋」という肉店のサイトが出てきた。
どうも自信ありげである。
いわく、
「数ある名ブランドの素牛として有名な但馬牛を産地直送で仕入れております。他にはない芳醇な牛肉の味をご堪能くださいませ。」

ただ、その直後にこうある。

「但馬屋で取り扱っております「但馬牛・鹿児島牛・佐賀牛」などの国産黒毛和牛肉は、欧米産の牛肉に比べると管理が難しく、鮮度によってかなり味が変わります。」

おいおいおい。「但馬屋」なのに「但馬牛・鹿児島牛・佐賀牛」ですか。

ちなみにほかの但馬牛のサイトを見るとたとえばこんな記述がある。

「神戸肉・神戸ビーフ」をはじめ「松阪肉」「近江肉」などの、もと牛はすべて但馬牛です。また現在全国の有名ブランド牛(前沢牛・佐賀牛・飛騨牛)は例外なくこの但馬の血を引いているといわれます。全国の85%以上が但馬牛の系統です。

各地の銘柄牛の素牛が但馬牛であることはよくわかるのだけど、いまはどこの牛肉がおいしいのか、というのは別だと思う。
パンの起源はメソポタミアだがいまはフランスのほうがパンがうまいのと同じようなものではないのか。ちょっと違うか。

「佐賀牛」は(社)日本食肉格付協会の定める牛枝取引規格の肉質等級『4』BMS『7』以上の肉牛しか『佐賀牛』と呼ぶことを認めていない。その点、但馬牛は但馬地方で生産される黒毛和種であればすべからく但馬牛と呼んでいいようになっているようなのだ。

だからさ、「但馬牛に劣っておらず」というのはなあ。   

くどい?


ふるかわ 拝

平成19年11月6日(火)
第228号   「362日間のくんちイブ」

2、3、4日の3日間、唐津くんちだった。より正確には、2日の夜の宵山から始まって、4日夕方の曳き納めまでなのだが、とにもかくにも唐津の街なかはくんち色に染まる。

もちろん、このときだけくんちのことをやっているわけではない。

各町の曳山を司る人たちは、一年間通してずっとヤマも町も守っている。いま中心商店街の衰退が叫ばれて久しく、唐津の街とてその例外ではない。その中心商店街のひとつひとつのストリートが唐津でいう「町」で、いわばひとつのストリートがヤマを守ってきているというわけだ。

唐津くんちは、その威勢のよさとお客さんをもてなす料理の豪華さがややもすれば喧伝されるけれど、商売が昔のようにはいかなくなってきる中で、「くんちをする」(料理を作ってお客様を招く)というのは勇気のいることになってきている。「今年はくんちをするかなあ?」と悩む家も多いし、カンでいえば「くんちをする」家は減ってきているようにすら思う。

くんちの好きな人は多い。僕も含めて。でもそのくんちを支えていくのは町であり、それぞれの町におけるお店が繁盛してこそくんちも続けていくことができるのだと僕は思う。いま、唐津の中心商店街は、再生に向けて動き始めている。昔ふうの店構え(ファザード)の店も増えて雰囲気がよくなった。しかも、このファザード整備をしたお店はくんちの間にも店を開けてくれているところが多い。店が開けてあるときれいに整備された店構えを外から見てもらうことができる。「くんちのときは商売にはならないから」と店を閉めているところが多かったのだが、なぜ開けておいてくれるのだろうと思っていたら、それは、ファザード整備を担当する市職員の1人が 「商売じゃなかさ。くんちのときはたくさんの人が来られるけんが、むりしてでも店ば開けて見せんば」と関係者に訴え、それが実現しているのだという。くんちにまつわるこうしたエピソードは本当に多い。

僕自身、小さいころはヤマに乗り、その後はヤマを曳き数十年過ごしてきた。
だから、秋になるといまでもなんとなくそわそわする。10歳まで過ごした唐津での暮らしがよみがえってくる。

10月になると、町内で囃し方の稽古の音が聞こえてくる。ああ、くんちが近づいてきたなと思う。そして、「背広に草履」という奇妙ないでたちのオトナの姿を見かけたりする。くんちの三日間、草履をはくために、あらかじめなれておいたほうがいいというので馴らしている人がいるのだ。

そうしていよいよくんちを迎える。世間的には11月3日の「曳き込み」という行事が「祭りのクライマックス」といわれているのだが、曳き子である僕の感想からいえば、最大のクライマックスは最後の最後の曳き納めだ。ヤマを納める唐津市民会館横の曳山展示場に向かってヤマを進めていくときの、「ああ、今年もくんちが終わる」という甘酸っぱいような感情。最後にヤマを納めるときの「納めたくない、でも納めなければ」というアンビバレントな感情。多くの曳き子やヤマの関係者にとってはあの瞬間こそがクライマックスではないだろうかと思う。

今年もくんちは終わった。でも町の関係者にとっては終わっていない。また日常が始まっている。くんちは3日間、でもそれは362日間の「くんちイブ」があってのものなのだ。


ふるかわ 拝