2007年4月

平成19年4月24日(火)
第201号「伊藤一長市長を思う(下)」

 いずれにしても、今回このような暴挙によって一方的に命を奪われたことがまことに残念でならない。選挙の期間中というのは、候補者は誰でも人に対して無防備になる。人を見つければ寄っていきたいと思うし、人が近づいてくれればありがたいと思う。公職にあるときと違って、候補者であるときというのはその期間中はとても人恋しい期間なのだ。そこを狙って、まさに目立つようにたすきを掛けた姿を狙って、そこを銃撃するという、候補者としては恐怖としか言いようのない今回の事件だった。
 原因ははっきり分からないが、市政に対する不平や不満があったと一般的に言われている。もちろん佐賀県政に対してもさまざまな声が寄せられているし、事実、僕に対しても脅迫状が来たり、県庁や知事公舎に面会の強要のために来られたこともある。現在までのところ大事には至っていないが、こうしたことがあるからという理由で、少なくとも行政としてやらなければいけないことや正しいと考える主張をしていくことに怯んではいけないと思う。
 今、佐賀県では県民協働の旗印のもと、協働化テストなどを通じてより多くの県庁外の社会的な組織の方々に県政への参加を呼びかけている。それはそれで先進的な取り組みとして評価されている。また、県庁の一般的な調達や入札についても、一般競争入札が主流となってきている。こうしたことが世の中の流れとしては当然だと思うが、こうしたことに名を借りた非社会的な組織からの行政への参画はあってはならないことだと強く思う。幅広い参加と厳しいチェック、この一見相矛盾する要請にどう応えるのか、大変難しいが、僕としてはこれから取り組んでいかなければならないと考えている。伊藤さんが亡くなられた後に出した知事メッセージの中で、行政対象暴力に対して毅然とした対応をするという宣言をした。そうすることが伊藤一長氏の犠牲に報いる唯一の道だと僕は思う。
 「長崎で一番の男になるように」という願いのもと、一長という名前がつけられたと聞いていた。長崎でたった一人だった市長という職を、こうしたかたちで失わなければならなかった伊藤一長氏の無念をあらためて思う。

ふるかわ 拝

平成19年4月22日(日)
臨時増刊号「伊藤一長市長を思う(上)」

 4月17日、午後8時21分。僕はそのとき近くのクリニックにいた。電話が鳴った。その時にすぐには出ることができず、留守電を聞いたら後援会の方からだった。よく聞き取れなかった。「ナガサキシチョウガウタレマシタ」という日本語がよく理解できなかったのだ。しばらく経って今度は新聞記者の方からの電話が鳴った。今度は直接話すことができた。間違いなく「長崎市長が撃たれた」ということだった。
 治療どころではなくすぐに対応を指示した。事実関係の把握とそれに応じての知事コメントの発出だ。佐賀県庁でも急には様子がつかめないだろう。一方でメディアのほうからは一刻も早くコメントをということが言われている。自分で考えるしかない。そう考えて診療台の上に仰向けになりながら、携帯電話で秘書に知事コメントの案を読み上げた。一刻も早い回復を心から願った。
 残念なことに伊藤一長氏は手術の甲斐もなくその夜半、息を引き取られた。

 僕が長崎県庁に勤務していたとき、仕事の関係でよく伊藤市長にお目にかかった。伊藤市長はパーティーなどの挨拶で原稿を読まず、その場に応じた当意即妙の話をされる。そこに集まっておられる方の顔を見ながら一人ひとりの名前をあげて挨拶のなかに入れられるのを得意としておられた。自由闊達の雰囲気の人だった。
 またこんなこともあった。長崎は被爆地だ。反核・平和についての活動も活発に行われている。その関係の会だったと思うのだが、控え室で伊藤市長と一緒になったことがあった。その時にこんなふうなことをおっしゃっていた。「広島が人類で初めて原爆の惨禍に見舞われた土地だというのは歴史的な「事実」だ。一方で長崎を人類最後の被爆地に、というのは人類の「意思」だ。長崎は「2番目の被爆地」ではなく、「最後の被爆地」にならなければいけない。そのためにもこういう運動が必要なのだ」。意外に感じた。前の本島市長に比べて伊藤市長は平和運動にはそれほど熱心ではないような印象を持っていたからだ。
それは僕の勘違いだったし、長崎市長という仕事がほかの地域とは違う重みがあることをあらためて感じた。
 伊藤市長の言葉を借りるなら伊藤市長は暴漢によって襲われた「2番目の市長」ではなく「最後の市長」「最後の政治家」でなければならない。
ご冥福を心から祈る。

ふるかわ 拝

平成19年4月17日(火)
第200号「飛び地を行く」 〜選挙戦をふりかえって2〜

選挙戦の中、報道はされなかったけれど、僕として思い入れの深いことがあった。
それは「飛び地を行く」ことだった。

飛び地には海の飛び地と陸の飛び地がある。海の飛び地はもちろん島のこと。佐賀県には7つの有人離島があり、すべてが唐津市。ここにたすきをかけて知事選挙の候補者として足を伸ばしたかった。もちろん、こうした島々に行ったことがないわけではない。前回は告示前に半日かけて回った。そして知事に就任してからも、その年の夏にすべての島々を回っていろんな話を聞いた。あれから3年経つ。島々がどう変わり、またどう変わってないのかも知りたかった。選挙戦の前半、船をチャーターして、選管からいただいた選挙運動用の船舶を示す旗をつけて島々に渡った。

結論からいえば、表情はさまざまだった。ある島、たとえば人口が増えつつある松島では、こどもが島に帰ろうにも住宅がない、というのが悩みだった。この島は遊漁船を中心にして生活が成り立っていて、こどもの数も増えつつあるのだった。別の島、たとえば小川島ではイルカが増えすぎて困っている、という話を聞いた。季節によっては島と本土がつながってみえるくらいイルカが多いのだという。それはそれでいいことなのでは、とも思ったが、そのイルカの好物が実はイカ。「呼子イカ」で知られるこの地域の特産をイルカが食べている、というなかなかつらい話なのだった。
しかし、どの島に行っても共通だったのは温暖化で魚種に変化が出てきているということだった。「私は定置網をやっていますが、これまで見たことなかったような南方系の魚がかかるようになってきています。地球の温暖化というのは遠いことのように思っていましたが、自分に身近なことなんだなと思うようになりました」と、ある漁業者の方は語っておられた。世界的に海水の温暖化が進んでいるようだ。地球環境の問題に無関係な人などいなくなってきている時代なのだと思う。

陸の飛び地とは福岡県を通過しなければいけない佐賀県の土地のことだ。筑後川という大きな川がだいたい佐賀県と福岡県の県境になっていて、多くの場合、筑後川の西側、つまり行政的には「右岸」が佐賀県、東側(行政的には「左岸」)が福岡県になっているのだが、幾多の川の流れの変化や河川工事のために例外が生じている。つまり、筑後川の東側なのに佐賀県になっているところが2カ所ある。それが三養基郡みやき町坂口と天建寺だ。ここに行くためには福岡県を通らないといけない。
ここにも行ったことはあった。地図でここの2地区の存在を知ってから、いつかここに行かなくてはと思っていた。「知事とかたろうかい」で全市町村を回るという事業を始めていたので、その中で訪ねた。それもまた3年前のことだ。あのとき、堤防道路が狭いということを言われたので、それを強化する施策を始めたはずだ。それがどうなっているのかも見たかった。

選挙戦の後半、この2地区を訪れた。福岡県側に比べて細かった道が広くなってきていた。十分ではないけれど進んでいる姿が見て取れてほっとした。ただ、まだまだやらなければならないことがあるのも事実。こうした、県境や島々にもしっかり眼を向けて必要な政策を実行していきたい。

この地区に長く住む長老の方が「知事選挙で候補者がこの地区に来てくれたのははじめてではないか」と言っておられた。うれしかったけれど、行っただけで終わりになるわけではない。なかなか難しいこうした地域の道路整備についても、なんとか知恵を出し、力を合わせてがんばっていかないと。

まさに がんばらんば さが!  なのだった。

ふるかわ 拝

平成19年4月15日(日)
臨時増刊号「当選から一週間 〜もういちどお目にかかることができれば〜」

公職選挙法の規定により当選のお礼を言ってはいけないことになっています。ごめんなさい。(これはいいのかな?)

今回の選挙戦を自分なりに振り返ってみました。各社からインタビューで聞かれたことや準備していたことをまとめています。

(前回と変わった部分)
自民・公明の政党や農協をはじめとする団体からのご推薦をいただいたこと。これは選挙を戦うという点では力強かった。JA支所での50回以上に及ぶ集会は、農政協議会の推薦をいただいたからならでは。前回は、こういう光景は夢また夢だった。

一方、「結果はわかってるじゃないか」みたいな反応がけっこう多くて大変だった。いかに現職があちこちの選挙で苦杯をなめているのか説明してもなかなか本気にしていただけない。大きなハコに人を集めようとしても集まらない。動員力はかえって前回よりもなかったと思う。

(そこで採用した戦略)
目標を明確にすること。当選することだけをめざす選挙ではなく、これまでの4年間に対する信認と今後の4年間に対する期待を含めて何票いただければ合格点なのか、選対内部で議論をして、30万票という結論を出した。この結論を選対として出したのは選挙戦の半ばのことだったが、その時点の票読みでは27、8万票。あと数万票の上乗せのため、各団体や地域、とくに県議選が無投票のところに対する再度のお願い、要請に回ることとあわせて、これまで訴えが届いていなかった別方面の開拓 を行うことが必要となった。

それが「団地作戦」。新興住宅地や高層の団地、マンションでの辻打ちを集中的に行うことにした。もともと農村部や商店街とちがって、こういう地域は日中に人が少ないこともあって、なかなか訴えが届きにくいといわれている。前回もこうしたところで演説をしたが反応はあまりなかった。

ただ30万票に届き、上乗せするためには、こういう新しい層に訴えをしていかないといけない。そう考え、はじめることにしたのだった。そして、名前よりは政策、とにかく自分が何をやりたいのかをきっちり届ける。それをめざした。

団地作戦をスタートさせるに当たって、一緒に動いてくれているスタッフにこう話をした。「こういう地域は反応がなくて当たり前と思ってください。僕が演説をしている間、みんなで手分けして、反応がないかどうか探しましょう。反応がなく出てくる人がゼロでもOK。きっと部屋の中で聞いてくれる人はいるはずです。もし出てきてくれる人がいたら、すぐマニフェストを渡しましょう。ベランダに出てきてくれる人がいたら、すぐにお礼のご挨拶をお願いします。そういう人がひとりでもいれば「成功」、2人以上なら「大成功」。そういう気持ちでやりましょう」。

結果はどこも「大成功」だった。 最終日は辻立ち40回。よかったと思う。選挙が終わった後、スタッフからも「あの最終日の辻立ちでいけると思いましたよ」といわれた。

(エピソード)
ただ、団地作戦には悔いもある。佐賀市営のある団地でのこと。まず僕がまんなかの公園で福祉、とくに障碍福祉を充実させたいということを話して、それから団地内をクルマで回った。ある角を曲がったところに、小さな女の子が 座っていて、そこに母親らしき女性が付き添っておられた。
よくみたら女の子は車椅子だった。まだ小学校入学前なのではないかと思う。あっと思って手を振り、声はかけたが、降りてその女の子のところまで行くことができなかった。その後、隣にある事務所団地で演説したが、やはりどうしても気になってしかたない。もういちどそこに戻った。でももう姿はなかった。あの母子は僕の演説に反応をしてくれて外に出てくれていたのではないかと思う。その団地も部屋の番号も僕はしっかり覚えている。いつか機会があったらお目にかかることができればと願う。

もうひとつは、佐賀のゆめタウンでのこと。最終日、演説しようとゆめタウンに行ってみたら、そこにご夫婦が待っていてくれた。街演車の声を聞いてこちらに向かっているなということがわかっておられたようで「待ってましたよ」、そう声をかけていただいた。ところがそこのゆめタウンでは県議選の候補の方が演説中。だから僕は待った。ところが10分以上経っても終わらない。しかたなく、別のところを回ってこようとその場所を出発しようとしたら、そのご夫婦がまだ残っておられたのだった。気づかなかった。もし、気づいていたら、マイクなしで二人のためのミニ演説会をさせていただいたのに。申し訳ない。ほんとうにごめんなさい。
また、いつかどこかでお目にかかることがあったら「あれは私です」と教えてください。


ふるかわ 拝