2008年5月

平成20年5月27日(火)
第257号「車いすで公道を走る」

車いすに初めて乗った。
有田町で開かれているセラミックロード車いすマラソン大会のエキシビションイベント「体験車いすリレー」に参加してわずか100メートルだが公道を走ったのだ。

とこう書いてみたが、このことをなんと表現すればいいのか恥ずかしいことだが迷った。

車いすに「乗って」マラソン大会で「走る」。これはまあわかるような気がする。
じゃ、普通に車いすに乗ってA地点からB地点に移動することは「車いすで行く」なのか、「車いすで歩く」なのか、「車いすで動く」なのか。
車いすで旅行する人のことは三重県の伊勢志摩地域の一部の人たちは「チェアウォーカー」と呼んでいたからそれにならえば「車いすで歩く」なのだろうがあまり一般的とはいえないし。
自分で表現しようとして考え込んでしまったのだ。
僕を取材していた記者さんたちもうーむ、と首を傾げている。
翌日の記事を見たら、「知事も車いすを操作した。」と書いてある。さすがプロはこうするのだなと感心はしたものの、本筋ではない。
こういうときにいつも相談に乗っていただけるUDアドバイザの山崎泰宏さんに聞いてみたら、「A地点からB地点に移動することは、「車いすで歩く」よりは「車いすで行く」の方がよく使われる表現だと思います。私もそのように使うと思いますが、実際に私がコンビニに買い物に行く時は「コンビニに行く」と書き、「車いす」という言葉は使いません。当たり前だからなのかもしれません。何で行ったかを書きたければ「車いすで行った」と書くでしょう。」という答えが返ってきた。
なるほど、そういうことなのか。いちいち「車いすで」と書かなくてすむ社会こそが求められているということなのだとあらためて感じた。

どう表現するかはともかく、はじめて車いすで(ここはやはりこう言わないといけないでしょう)公道を走った。気持ちよく風を切るというよりはとにかくまっすぐ進めるのにせいいっぱい。とはいえ、僕のはわりとまっすぐに進んだ。いっしょにスタートした小中学生よりはスムーズだった。
実はそれには秘訣があった。
スタートの前に、あるシンプルなアドバイスをもらっていたのだった。

それは「力を入れるな」ということだった。

必死に力を入れて車いすの輪っかのところ(「リム」といいます)を回そうとすると、どうしても右か左に偏る。それはどちらかの手の強さが異なるからだ。つまり100%の力を出そうとすると右の力100に対して左が80しかないとその分曲がってしまうということだ。
逆に力をそんなに入れずにぽーんとかるーい気持でリムを回してみたら右と左でそんなに力に差が出ず、わりとまっすぐ進むことができる。
それをスタート前に試しておいたのだ。
おかげで100メートルながら区間賞だった。

「力みすぎはいけない」。何にでもあてはまるということのようだ。

ふるかわ 拝


平成20年5月20日(火)
第256号 「 木村拓哉が総理大臣になったら」

4月がテレビ番組の改編の時期なのだが今年はCX系列のドラマ、いわゆる「月9」の改編は5月に行われた。GWも過ぎた5月12日(月曜日)に新しいドラマ「CHANGE」がスタートしたのだ。

なぜこんな時期にドラマをスタートさせたのかはよくわからないが、少なくともどうしてもテレビを見る人が減るGWを避けられたことで、このドラマの平均視聴率にはプラスに働くということはあると思う。

さて、このドラマ、主役は木村拓哉で、長野県の山村の小学校教師から急逝した父親の後を継いで衆議院議員選挙に出馬、国会議員、その後総理大臣になるというストーリー。

第1回は、選挙のシーンが多かったのだが、ついついこの世界に身を置くものとしては気になることが多い。
たとえば、ポスターの張り方。そもそも選挙用のポスターは張る場所や張り方が限られている。選挙事務所であるという表示は3枚までOKなのだが、ドラマの中でも看板2枚とポスター1枚で合計3枚となっていて、このあたりはリアリティがある。

ところが首を傾げたくなるような設定もあった。たとえば選挙運動期間中のある日のこと、木村拓哉候補が街宣活動を終え、(ということは午後8時ということでしょう)、プラネタリウムに行くというシーンがあった。ふつうの候補はこんな余裕はない。街宣活動が終わったら個人演説会じゃないの?

このほか、投票日当日のこと、有力な対抗馬(なんと前福岡県知事!!らしい)の圧勝が予想されてか、元気のない選挙事務所。木村はもう荷物をたたんで事務所を後にするばかり、というところに電話が入ってきて、「票が伸びてる!」ということがわかり、俄然活気づいてとうとう当選!という流れだったのだが、いまや投票当日は報道各社の出口調査が行われていて、接戦になるのか、ある程度差がつくのか、というのはだいたいわかっているのだ。そもそも投票日の一週間前には最終情勢調査が行われるし。
しかも、開票が始まる前に事務所にスペースを作って、そこに支持者や報道関係者が集まり、開票の様子を見守るというのが普通。事務所のスタッフだけがしかも開票所からの電話だけを頼りに待っている、というのはちょっとなあ。

ドラマだから、あまりコーフンする必要もないのだが、あまりにも突っ込みどころ満載で、ひょっとしたらこれは同じ木村拓哉主演の「華麗なる一族」の路線で行こうとしているのではないかという気さえする。

第2回の昨日(5月19日)では、初当選の木村拓哉がいきなり「総理大臣をやってほしい」と政友党総務会長からいわれたのも驚きだった。
ただ衆議院議員1期目で総理大臣になった人がいるのはいる。細川護煕さんだ。とはいえ、細川さんは衆議院議員選挙に出馬して落選したこともあるし、何よりその後参議院議員、熊本県知事を経験しておられたから政治的にはさまざまな経験を積まれていたわけで・・・。いや、別にドラマだからいいんだけど。


ふるかわ 拝


平成20年5月13日(火)
第255号 「菓子博覧会」

先日「姫路菓子博2008」に行ってきた。 その名のごとくお菓子の博覧会で正式には「第25回全国菓子大博覧会・兵庫」。
お菓子屋さんに行くとときどき店の奥に賞状が飾ってあることがある。あの博覧会のことだ。

会場は、姫路城の周辺。お城の周りが公園になっていて、そこにある美術館・博物館のスペースを一部借りたり、仮設のパビリオンを作ったりして会場に仕立てている。僕が行ったのは4月下旬の土曜日だったが、とても多くのお客様でにぎわっていた。当たり前かもしれないが、女性が多い。70%くらいが女性だったのではないだろうか、と思う。
事務所でスタッフの方にお話をうかがうことができた。

古川: とても盛況のようですが。
事務局: おかげさまで。目標は67万人ですが超えそうです。ほかの菓子博は実績で言うと、40万、50万ということもありますので、それからみても盛り上がっているといえると思います。
古川: 秘訣はなんだったのでしょうか?
事務局: 宣伝ですね。最後になって、県内は浸透しているけど、県外がまだだということになって、松浦亜弥が姫路の出身ということで「広報宣伝局長」になってもらってましたんで東京で追い込みの記者会見をしたり、とにかく話題を作っていったということだと思います。お菓子の姫路城やら世界三大美女のケーキやらまあいろいろ話題づくりをしました。
古川: お菓子で姫路城をつくるのは企画会社からの提案だったのですか?
事務局: 事務局で考えました。企画会議に出しても、なんかみんな「はあ?」みたいな感じで。でも、なんとか作れました。
古川: 評判はどうなのですか?
事務局: それが3時間待ちなんです。そのお菓子の姫路城を観に。
古川: 本物の姫路城が振り向けばすぐそこにあるんですよね?
事務局: 私たちもそう言ったんです。だからこんなもん、誰も見ませんって。
古川: でも大人気になった。
事務局: そうです。でも、これは作った人が立派だったということもあるんです。
古川: というと?
事務局: この姫路城を作った職人とその職人がいる会社が立派でした。もともとこの博覧会は、姫路城築城400年記念事業で姫路市がやりたいと いうことで菓子組合と組んでやってきてたのですが、県知事は最初あまり乗り 気ではなかったんです。というか、もっと地元や関係業界で盛り上がらないと成功しない。もっと盛り上げろとハッパをかけてたんですね。それがあるタイミングで「もうよかろう」ということで、県も本気になって人も金も出し始めたんです。そして、ある菓子メーカーの社長に「協力してほしい」と知事が頼んだんです。そしたら社長が感激されて、「それやったらちゃんとせんといかん」ということで、ある職人を呼んで「姫路城をお菓子で作るらしい。お前はほかの仕事はせんでもいいからその手伝いをせえ」と指示をされ、その職人も意気に感じて徹底的にやったんですね。その職人さんは、宮大工のところに「お城とは何か」というのを習いに行くことから始めてるんです。そして石垣をどう表現するのか、壁は?瓦は?さらには汚れは?ホントにすごい努力と研究だったようですよ。だからみんなが観に来るんです。ハンパに作ったものじゃない。そこが迫力になっているんじゃないでしょうか。
古川: いい話ですね。逆にもっとこうしておきたかったというものはありませんか?
事務局: もっとハコものへの投資を押さえたかったですね。
古川: というと?
事務局: もともと姫路城の中なので、掘り返すといろいろ出てくるというのでテントを張ることができず、パビリオンに余計に金がかかってるんです。本来ならば、そういうところに金をかけずに会場内の段差解消とかそっちのほうを充実させたらよかったと思います。
古川: そういう発想は当初はなかったのでしょうか?
事務局: かつて姫路市は20年くらい前に「城トピア」というイベントをやって成功したことがあるんです。このときはお金もありましたので、ハコもの中心でできたし、それでよかったんですね。この成功体験があったことがかえって今回、別のほうに舵を切りにくかったということがひょっとしたらあるかもしれません。
短い時間だったがとてもためになるお話だった。

全国の菓子を都道府県別に並べてあるコーナーもあり、佐賀県のブースには小城羊羹を中心に81業者のお菓子が陳列されていた。ただし、ここは並べるだけで、販売はない。佐賀県は81のうち小城羊羹が30数社、お隣の長崎県のブースはほぼカステラが数十社、という感じでそういうものがただ並べられているだけなので正直「とてもおもしろい」というものではなく人もそれほど多くなかった。

ところがその先に販売のコーナーがあって、そこは大賑わい。各県別にお菓子が置いてあり、佐賀県のものは福岡県と一緒のブースにあって北島さんと村岡屋さんのお菓子が販売されていた。

バーゲン会場並みの大賑わい。事務局の方がぽつんと「買うだけだったらデパートでもネットでも買えるんです。でもわざわざここで買ってもらってるんです。お客さんもここで買ったと言いたい、そのためにここで買い物をしていただいているんですね。ありがたいことです」とつぶやかれた。

ところで佐賀県は、名だたるお菓子王国だった。

4月26日付け佐賀新聞の1面下の村岡屋総本舗の広告にはこうある。
「かつて、日本には、森永をはじめ、グリコ、明治、新高と4大キャラメルメーカーがありました。新高製菓の創始者・森平太郎は、佐賀県出身者であり、現在、日本経済新聞最終面の連載小説「望郷の道」の主人公藤正太のモデルとなっています。著者北方謙三氏は森平太郎氏の曾孫にあたります。森平太郎は単身台湾へ渡り、新高製菓を起業。最盛期には日本全国はおろか、中国大陸にも販路を広げました。
バナナキャラメルや新高ドロップの名は団塊以上の世代の人々の記憶にしっかりと留められています。
森永製菓の森永太一郎、江崎グリコの江崎利一、そして新高製菓の森平太郎、戦前の4大キャラメルメーカーのうち3つまでもが佐賀県出身者の創始によるものです。佐賀県はキャラメル王国であり、戦前の佐賀人の三大職業は軍人、裁判官、菓子屋といわれていました。」

もともとはお菓子王国の佐賀県のはずなのに奇妙な記録もある。
ひとつが第1回のお菓子博覧会(明治44年の第1回帝国菓子飴大品評会)のときのこと、全国各地から出品があった中、佐賀県からだけ出品がなかったことだ。

もうひとつが、このお菓子博覧会、九州で開催したことのないのが宮崎県と佐賀県だけだということだ。これだけお菓子に関して人もモノも出していながら、とやや不思議な気がする。

いずれにしても、こうした博覧会の成功の鍵は一にも二にも「人」に尽きる ことを感じ、温かい気持ちになった。

ふるかわ 拝

平成20年5月7日(水)
臨時増刊号 「新幹線」

4月28日月曜日、新幹線事業のひとつの節目として起工式・記念祝賀式典が行われた。

僕はその起工式で挨拶をすることになっていた。いつもであれば挨拶は関係の資料をもらったうえで、自分で組み立てて話をすることにしていて、読み上げの原稿は式辞以外は作っていない。
でも、この起工式だけはほかの行事とは違うと思って読み上げ原稿を準備した。
この起工式はお祝いの式だ。そしてこれからの工事の安全を祈る式でもある。そういう式においては、基本的にはお祝いの言葉を述べるのが普通で寿ぎ(ことほぎ)の言葉以外は使わない。結婚披露宴のときの挨拶と考え方は同じだ。一方で、これまでの新幹線に関する議論や関係地域・住民のことを思うと、ただ、お祝いの言葉を述べるだけでは足りないのではないかとも考えた。かなり悩んだ。これまでの議論や経験をどう活かしていくと言えばいいのか。最終的に出来上がったのは起工式の10分くらい前だった。

原稿がやっとできあがり、ふとテーブルの上の小さな花瓶に目をやったらそこに活けてあるガーベラの茎にてんとう虫がいるのを見つけた。
上に行こうとしながらときどき落ちてしまうのだが、またそれでも何度も何度も上ろう上ろうとする様子がまことに愛らしい。手にとってお手伝いをし、ガーベラの花の真ん中に置いた。新幹線のこれまでの苦労といろんな方に手伝っていただいて花を咲かせることができたという思いがこのてんとう虫に重なった。


平成20年4月28日

九州新幹線西九州ルート武雄温泉・諫早間建設工事起工式あいさつ


 本日、冬柴国土交通大臣をはじめ、国会議員の皆様方、そしてまた多数のご来賓の皆様方にご臨席をいただいて、「九州新幹線西九州ルート武雄温泉・諫早間建設工事起工式」を開催できますことを、まことに喜ばしく、厚く御礼を申し上げます。

 地元関係自治体を代表して、ひとことごあいさつ申し上げます。

 この記念すべき日を迎えることができましたのも、ご臨席をいただいております、皆様方の、一方ならぬ、本当に、並々ならぬ、ご尽力によるものでございます。本当にありがたく思っているところでございます。
 この日を迎えるために整備計画が決定された昭和48年からみますと35年という長い歳月を要しました。

 この間、ルートが変更になったり、フリーゲージが導入されることになったり、また経営分離されなくなったりなどさまざまな面での変化がございました。そういう中でも、この西九州地域を全国の新幹線網に組み入れ、なんとか地域の浮揚を図っていきたいという思いの変わることはありませんでした。
 新幹線整備についてさまざまな声があるのも事実です。しかし、東海道新幹線のときも最初はそうでございました。標準軌による新線整備については、当時の国鉄内部でさえ、異論があったと伺っています。
 しかしながら、新幹線の整備が時代遅れになりかけていた鉄道の復権につながりました。

 私は、今日の日を迎えるまでのさまざまな紆余曲折を思うとき、今回の新幹線整備に向けて寄せられた議論については謙虚に受け止め、そのうえで、私は今回の新幹線をそれゆえに必ずやいいものに仕上げなければならないという強い決意にいま立っています。

 新幹線に限らず社会資本整備は道具であります。

 ゴルフでも野球でもいいクラブやバットを手に入れただけでは飛距離が伸びるわけではないように、その道具を生かす知恵と努力が求められると考えます。そして新幹線はそれだけの努力をすればそれに応えてくれる優れた道具であるとも思います。

 東京駅の新幹線18番ホーム下に、ある埋め込みがあります。
 「東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」とあります。
 当時の総裁のお名前などではなく、ただ、ひとことそう記されたレリーフに私は関係者の誇りを感じて仕方ありません。
 そしてそこからホームに上がると、線路脇に鉄道の起点を示す「ゼロ標識」があり、また、ホームそのものにも「新幹線起点」が示されています。

 今回の新幹線整備は直接的には中国関西地方との関係強化ということになるわけですが、この新幹線起点と最終的にはつながっていく、つまり国土軸の整備であります。

 新しく新幹線が開通したとき、そこにどういう文字が書き込まれることになるのかまだわかりませんが、この新幹線が地域発展の優れた道具として多くの人に使っていただける存在になるように、約10年後とも言われている完成に向けて、私たちは東海道新幹線のとき以上に叡智を結集し、努力をしなければならないと思います。
 そのためにも、ぜひともこの新幹線をより愛されるより使っていただける存在となるように皆様のお力をどうか賜りたいと思うのであります。
 新幹線は、「つくる」から「つかう」へ。それによって、ネットワークが「つながる」。それを地域の発展に「つなげる」。こうしたことを目指していきたいと思います。
 この新幹線は全国の新幹線整備計画上の路線で唯一着工されていない路線であり、いわば最後の新幹線であります。

 これを「最後の新幹線」ではなく、21世紀型の「最初の新幹線」にすることをお誓い申し上げ私のごあいさつとさせていただきます。


平成20年4月28日 佐賀県知事 古川 康



思えば本当に「ロングアンドワインディングロード」だった。

ふるかわ 拝

平成20年5月6日(火)
第254号 「青木龍山先生」」

4月27日(日曜日)、陶器市の準備に忙しい有田町の街並みを抜けて、故青木龍山先生のご自宅に弔問に伺った。仕事の都合で通夜にも告別式にも参列できなかったからだ。

文化勲章受章者で日本芸術院会員の陶芸家の青木先生は23日に亡くなられた。天目釉を中心とした技法で「黒の青木」と呼ばれ高く評価されていた人だった。

お忙しい中、長男の清高さんと敦子夫人に応対していただいた。

古川: しばらく前から体調がすぐれないとは聞いていましたが。
青木: 本人も覚悟はしていたようです。ただ、福岡の三越でこれまでの集大成ともいえる個展ができたので、そこは本人もある程度満足していたと思います。
古川: 手術はされなかったんですか?
青木: 結局しませんでした。手術をすれば命だけは長らえることができる。しかし、寝たきりになる、と言われました。一方で手術をしなければ最後まで元気でいられるかもしれないがその分長く生きることはかなわない。そういう2つの道があったのですが、父は後者を選びました。
古川: 清高さんはどう思われましたか?
青木: 私ですか?私は、父の考えには反対しました。芸術家である父は最後まで作陶をしたかったと思いますが、私は息子ですから。
とにかく長く生きてほしいと思っていました。
古川: 病床ではご本人はもう最後だという意識はあったのでしょうか?
青木: あったと思います。
古川: 最後はどういうお言葉だったのでしょうか?
青木: 「綾子」、「綾子」でしたよ。
古川: ・・・・・・
青木: いまごろは向こうでまた一緒になれて喜んでいるのではないでしょうか。
古川: 奥様でいらした綾子様も大変りっぱな方だったと伺っています。
青木: 父は作品を売りたがらなかった人でした。受賞作がほとんど人の手に渡っていません。だから展覧会をするときにも作品がそろうんです。
父はいろんな展覧会で賞を受けながら、それを売らない。しかたないので、母が自分で有田焼の首飾りなどを作って暮らしを立てていました。いまでも少し残っていますよ。そういう人でした。

こういう話をしながら、先生の工房に案内していただいた。結果的に遺作となった牡丹文様の大皿がまだ描きかけのまま机の上に残されていた。牡丹がいまから咲こうとするタイミングの絵だった。

古川: いまにもただいまーって帰ってこられそうな感じですね。
青木: あの日のままにしてありますからね。でも、生きているときには近く感じていた父が、亡くなってみるととても遠くに思えて仕方ないです。

工房を出た。庭にはモデルとなった牡丹があった。遺作となった皿に描かれかけた牡丹はつぼみだったが、そこに在る庭の牡丹は花開き、むしろ落ちんばかりとなっていた。

「父が倒れたのが20日ですから今日でちょうど1週間なんですよ。忙しくて時間のことを考えるひまがなかったのですが、この牡丹を見てると時間が経ったんですねえ」。

清高さんがつぶやいた。

青木龍山先生はもはやこの世の人ではない。しかしながら、清高さんはすでに現代工芸美術家協会の理事であり、日展評議員にもご就任され、青磁の世界を極めておられる作家である。

先生もその点はほっとしておられることだろう。

ふるかわ 拝