2008年8月

平成20年8月26日(火)
第270号「ある初盆」

いささか前の話になるが、今年も初盆参りをした。この1年間に亡くなられた方の中から県政と関係の深かった方のところ数軒に初盆のご挨拶に伺っているのだ。
どの家でもさまざまなお話を伺う。
たとえば、ずいぶんご高齢で亡くなられたお父様についての息子さんのお話。

「父は最後認知症になりましてね。毎日のことにも不自由するようになりまして。私は息子ですからずけずけ物を言います。認知症といってもそこはおもしろくないんでしょうね。私のことを『おまえは嫌いだ』って言うんですよ(笑)。でも妻に対しては違うんです。『あんたは好きだ』って。最後には僕のことがわからなくなりましたが、妻のことだけはわかってましたねえ。誰の世話になっているのか、だけは理解できてたみたいです」。

こういう話もあった。その「お父様」は最後までご自宅にずっとおられ、ある程度はデイケアを使いながらもいわゆる「お嫁さん」にお世話になりながら暮らしておられた。
息子さん(と言ってもこの方も、いい歳の、社会的な立場のある方なのだが)がこう言う。
「本人、認知症になってそれは大変でした。私は認知症の年寄りを見るのははじめてですしね。でもあるとき本当に妻に感心したことがありまして」。
「どんなことですか?」
「ある夜のこと、午前1時か2時くらいだったでしょうか、父が突然起き出してきたんです。そして、私に向かって『おい、消防の服を出せ、今から消防に行かんばいかん』と言うんです。真夜中ですよ。ただでさえいろいろ疲れていますし、私はもう怒って、『お父さん、あんた消防は30年も前に辞めたやんね、なんば言いよっとね』と言いました。でも、本人は聞き入れません。『とにかく消防の服を出せ、おれは今から行かんといかん』の一点張りなのです」。
「認知症というのはそういうことなのですねえ」。
「どうしたらいいのかわからず途方に暮れていたら、妻も起きてきてそこにやってきました。そこで妻が言った言葉に私はびっくりしたんです」。
「何とおっしゃったんですか?」
「妻は違いますね。こう言うんですよ。『お父さん、消防は今日じゃなくてあしたじゃなかった?』」

「そしたらお父様は?」
「そしたら父は『ああ、そうやったそうやった』と、また寝床に戻っていったんです」。
「・・・・・・」
「ああ、私は、妻にまったくかなわないと思いました。そして日頃から妻がどれだけ僕の父と接してくれているのか、と思ってホント頭が下がりましたね」。

この夫君のお話を奥様はじっと部屋の外の廊下のところで聞いておられた。

初盆参り。ひとつひとつの人生の違いとそれぞれの尊さに触れる一日だと思う。

ふるかわ 拝

平成20年8月19日(火)
第269号「ジェラルド・カーチスと原 丈人」

大人の夏というものは旅と本が基本らしい。今年の夏を中間総括すると、旅は上海に行ったし、本では「政治と秋刀魚」(ジェラルド・カーチス著 日経BP社刊)が出色だった。

この本は、半世紀近く日本の政治を見つめてきた著者の最新著作。この本では、カーチスさんの半生が語られるとともに、いまの日本社会と日本政治についての分析が試みられている。

カーチスさんには、昨年、富士会議という僕と同年代のさまざまな業種の人間で構成するセミナーの基調講演で来ていただいて意見交換をしたが、そこでも日本への愛情あふれる、そして愛しているがゆえの厳しい分析をしていただき、僕も含めて多くの参加者に感動を与えた。
僕自身が、この会議が終わったあと、世界観が変わったような気さえした。
「日本は背伸びしてはいけない、大国を目指すべきではない、そのうえで世界でなくてはならない国をめざすべき」という考えがじわーっと僕の頭の中で整理されていったのだ。
自分が漠然と思っていたことがこれですっきりした気がした。

ところで、18日の日曜日のお昼ごろ、グーグルの検索ランキングをチェックしていたら、原 丈人(はら じょうじ)さんが一位にランキングされていた。原さんは長崎県出身。世界を舞台に活躍されているベンチャー・キャピタリストで何度かお目にかかったことがある、すてきな方だ。世界を舞台にするスケールとの大きさと、お金が万能という世の中の風潮に疑問を呈しておられる姿勢が魅力なのだが、なぜ検索でトップになっているのだろうと思っていたら、その日の朝、フジテレビ系列の「報道2001」に出演しておられたからだった。

ああ、観たかった!と普通ならそれであきらめるところだが、その日は運が良かった。STSサガテレビでは、その日に限り、お昼の12時から「報道2001」を再放送したのだ。というのも、日本テレビが放映権を持っている北京オリンピックの女子マラソンをフジテレビ系列のSTSサガテレビが中継したため、いつもの時間帯に「報道2001」が放映できずに再放送となったわけだ。(その前提には、佐賀県は民放が1局しか映らない県ということになっていることがあるのだが。ちなみに、その日の夜、もう一度ランキンをチェックしてみたら、もう上位にはなかった。ああいう番組に出演すると、その瞬間に検索頻度が上昇するのだなと感じた。)

原さんは番組の中でも、世界の人々に対して貢献できるプロジェクトに日本としてどう係わっていくか、ということを主張しておられた。原さんは言う。「会社は株主のもの?そんなの違うでしょ。会社は社会的な存在だし、そこに働く人やお客様のものでもあるはずだ」。
主張は変わっておられない。うれしかった。

ジェラルド・カーチスさんにしても、原さんにしても、日本は非軍事そして技術の分野で世界に必要とされる存在になるべき、という点で一致していると思う。そしてそういう社会の変化に政治もついていかないといけない、ということを特にカーチスさんは主張されている。

うかうかしていられない。こういう本や話に接すると、居ても立っても居られないような気になる。

ふるかわ 拝

平成20年8月12日(火)
第268号「上海佐賀県人会」

先週末上海に行った。今回はプライベイト。高校時代の友人が上海にいて、彼から「上海の佐賀県人会に来て県政報告をしてほしい」と頼まれたのだった。「いつごろにしようか」と尋ねたら彼が「いつでもいいよ。上海佐賀県人会は例会をふた月に一度やってるし来るときに合わせて集まるから」という。
ふた月に一度例会をやっている海外県人会があるのか、というのがまず驚きだった。国内の県人会でさえ、そんなにしょっちゅう集まっているというのは珍しいのではないか。ましてや海外で、と驚いた。そういう県人会のありように興味が湧いた。
もうひとつ興味をそそられたのは、先日、唐津市に進出したフリービット株式会社の社員の人から来ていた一通のメールだった。彼も佐賀県出身者だ。「唐津の立ち上げが終わったので次は中国でのビジネス展開のために上海に来ました。しばらくこちらで仕事します。佐賀県人会にも入りました」と書いてあったのだ。彼は30代。県人会というのは比較的年輩の方が中心メンバーであることが多いのだが、こういう若い人がさっそく入った上海佐賀県人会とはどういうものなのか、ということにも関心があった。
ということで比較的仕事が少なくなる夏のこの時期に行くことにした。

県人会の会場は「天手古舞」(てんてこまい)という日本風餃子中心の居酒屋だった。それほど広い店というわけではないが、奥に2,30人で会合のできるスペースがあってそこにみんなが集まっている。上海だけでなく今回は無錫や蘇州などからも人が来てくれていて30人近い人で会場は盛り上がっていた。この店の経営者の奥様が鳥栖市の出身ということでときどき県人会が使っているのだという。

たしかに、若い人も含めて集まっているのは現役世代の人ばかりだ。多くの人たちは日系企業の社員で、転勤でこちらにいる人たちだから当然といえば当然かもしれないが、大企業やその関連の企業の人たちで佐賀県にゆかりのある人たちが毎月楽しく飲んでいる会という雰囲気だった。
なかには女性一人で日系企業で働いている人もいて、「とにかく仕事が楽しくてしかたない」と言う。上海という街が成長著しいからそこで働く人たちも元気になるのか、とにかくこの夜もポジティブな話で盛り上がっていて、いっしょにいる僕まで元気と想像力をもらった気がした。

県政報告もした。いちばん反応があったのは早稲田佐賀中学・高校(仮称)が2010年春に開校するというニュースだった。「この学校が目指そうとしているのは21世紀に生きる人材を育てるということですが、それはすなわち、皆さん方のように海外で活躍できる人材をつくる、ということです。つまり、皆さん方の後輩を育てていきたい、というのがこの学校のねらいです」と話をした。こういう話を現地ですると本当に反応がある。そういう人材の必要性をみなさん肌で感じているからではないだろうか。とにかく和気藹々の愉しい会合だった。

ちなみに今回の上海滞在中、北京オリンピックがスタートしたが、上海の街はびっくりするぐらい静か。オリンピックのマスコットもほとんど見かけない。見かけるのは2010年の上海万博のマスコット「海宝(ハイパオ)」君ばかりだった。
この例会では重要な決定が行われた。「これまで、偶数月に行ってきたこの県人会を奇数月、つまり、1、3、5、7、9、11月に行うことに変更したいと思います」。古賀会長がこう提案した。「理由はこうすれば12月に忘年会ができるからです」。
この提案は満場の拍手をもって受け入れられた。

ふるかわ 拝

平成20年8月5日(火)
第267号「甲子園の熱闘」

甲子園の熱闘が今年もスタートした。約2週間後には今年の優勝校が決まるだろう。その前に去年の佐賀北高の優勝に関連してひとつだけ記しておきたいことがある。

優勝が決まった直後、監督がまず胴上げされた。それから部長の体が宙を舞った。高校野球ではふつう、これで終わりだが、次に1人の選手が胴上げされた。それは主将のI君でも満塁ホームランを打ったS君でもなく、出場機会のなかったM君だった。

M君はマネージャーだった。選手として入部したものの一年の春に故障してそのままマネージャーになった。道具を揃え、ノックをし、スコアをつけた。選手と監督で意見が分かれるときも、間に入って調整した。ノックをするためには当然外野にも飛ばさなければならない。なかなか思ったところまで打球が飛ばせないからと打撃練習までした。自分が試合に出るための練習ではない。選手の役に立つための練習だった。そういう彼の努力を仲間はよくわかっていた。それが選手の中で唯一の胴上げということになった。主将のI君は甲子園優勝後のインタビューでよくこう言っていた。「Mがいたから今のチームがある」。

それが言葉だけのものでなかったことがその後証明された。
甲子園優勝の1ヶ月半後、秋田県で行われる国体に佐賀北高が出場することになったときのことだ。国体の野球は甲子園で活躍したチームの中から、12チームが選抜される。優勝した佐賀北高が選抜されるのは当然のことだったが、甲子園に比べて登録できるメンバーの数が少ないのだ。Mをメンバーとして登録すべきか、監督は悩んだが、Mがいないことは考えられなかった。

そして、M君は国体に出た。金足農業との試合、5回に代打で出場した。
公式戦初打席だ。緊張するなという方がむりだろう。案の定、ストライク、ストライクと2球つづき、追い込まれた。ベンチからはみんなが必死に応援している。そしてようやくバットが出た。すごくいい当たりとは言えなかったが、それでもしぶとくショートとサードの間をころがる。M君は必死に走って一塁セーフ。内野安打となった。甲子園にも県大会にも、いや公式戦に全く出たことのなかったM君。公式戦の通算打率は1打数1安打の10割となった。

下積み、下支えというのはいつの日も光のあたるものではない。でも、そういう仕事をしてくれる人がいないと組織や団体は動かない。『そういう人たちがいてくれてはじめて自分たちがある』ということに気づいた佐賀北高の野球部のメンバーはそれだけでも全国の頂点に立つ資格があったのだと思う。

M君は、今年の4月、希望の大学に進学した。その大学は教員養成系統の名門大学。進学に当たってあの国体に出たことが大学に評価されたみたいだ。そして、野球部に入っている。
彼がいつの日か佐賀県に教員として帰ってきて、自分の経験を基に後輩たちに指導をしてくれることがあるかもしれない。

ふるかわ拝