2009年11月

平成21年11月24日(火)
第334号「FRIDAY NIGHT Talkin' Radio」

FM佐賀で11月からスタートした FRIDAY NIGHT Talkin' Radio という番組がある。木原慶吾さんというパーソナリティがなつかしい曲をかけておしゃべりをするという番組なのだが、その中に「マイスターズリクエスト」というコーナーがある。それは佐賀県内のいろんな人たちのリクエストをかけてしまおう、という企画になっている。その第1回として僕にオファーが来た。つまり僕のリクエスト曲、「あのころ」を思い出してかけてほしい曲は何か。そして、ついてはその曲にまつわるエピソードを書いてほしい、ということだった。

まあ、いやなことではないし、断る理由もないし、断りたくもなかったので嬉々として書いたものを放送局に提出した。それが先日オンエアされた。こちらから提出した原稿どおり読まれてむしろ恥ずかしかったけれど、どんな原稿を送ったのか記録に残す意味もあってここで紹介したい。ふつうは1曲しか書かないと思うが放送局から来た原稿用紙が2枚分だったのでそのとおりにした。よくばったわけじゃない。

以下が原稿だ。


(1) イン・マイ・ライフ(ビートルズ)
佐賀大学附属中学校の3年生だったころ、つまり昭和でいえば48年から49年。当時ビートルズは解散していたけれど同級生の間では根強い人気があった。僕もそのうちの一人で小学校6年のころからビートルズファンだった。当時、佐賀市西田代町だかその辺に(貫通道路沿いだったように思う)ポスター屋さんがあって、とくに洋楽のミュージシャンたちのものがたくさんあった。CCRとかシカゴとかYESとかCHASEとか。その中にもちろんビートルズもあって、そこで買ったポスターを僕の部屋に飾ったりしていた。
当時附中の卒業式の後には謝恩会というものがあってそこで生徒が唄を歌ったり、楽器の演奏を披露したりしていた。僕らのクラスの合唱曲はたしかカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」だったと思う。それとは別に有志がバンド演奏をしたのだが、そのときの曲が「イン・マイ・ライフ」だった。リードボーカルは陣内孝則。サブボーカルは古川康。しかも僕はマッシュルームカットのかつらをかぶって。この曲を聞くたびにあの格好の恥ずかしさを思い出す。
「イン・マイ・ライフ」は1965(昭和40)年発売のアルバム「ラバーソウル」の中の1曲。ジョン・レノンが育ったリバプールの街の様子を歌い上げている。ぜひFRIDAY NIGHT Talkin' Radio 第1回にふさわしく、去る9月9日に発売になったビートルズのリマスター盤CDを使ってかけていただければ。リスナーの皆さん、音を少しだけ大きくしてみてください。



(2) 銀の指環(チューリップ)
なぜチューリップが好きになったのかは覚えていない。ただ、中学校2年のときに「夏色のおもいで」が流行って、その翌年にこの曲が出てシングルレコードを買ったことやボーカルが財津和夫だったこと(それまでは姫野達也がボーカルのことが多かったので珍しかった)、などを覚えている。チューリップには「すべて君たちのせいさ」というビートルズのカバーアルバムがあるが、それに表わされるようにビートルズとテイストが似ていたことが理由だったのかもしれない。とにかくこのグループが大好きだった。
卒業式の日、2つ下の学年だった女子生徒がそのことを知ってて音楽室の前の廊下のところで僕にチューリップをくれたというのもいまでは甘酸っぱい思い出だ。
あの校舎もいま改築中だけど。


元気にしてる?はやたん。



以上が原稿。


ちなみに、(2)に関連して字数の関係で落としたのだが、この「夏色のおもいで」は、作曲は財津和夫だが作詞は松本隆。あのはっぴいえんどの松本隆が作詞家としてはじめて作った曲がこれだった。
松本隆が作詞家としてすごいと思ったのは、そのころまで「夏」はいろんな歌の対象になっていたけれど、夏が終わった後のことは歌になってなかったのにそれを歌にしたのが彼だったという点だ。「夏色のおもいで」も実は夏が終わった後の曲だし竹内まりやの「September」も太田裕美の「九月の雨」もそう。このころ「九月」を歌詞にするという雰囲気はお盆やお正月を歌うというくらいのびっくり感があったように思う。


オンエアでは、なぜかわからないが先に(2)が読まれた。なんとなく甘酸っぱい感じを(2)で出してみただけにほんとはこれを後のほうに読んでほしかったんだけどな。


ふるかわ 拝

平成21年11月17日(火)
第333号「『事業仕分け』をごらんあれ」

先日、東京に出張したとき時間が少しあったので、行政刷新会議ワーキンググループの「事業仕分け」の会場に様子を見に行ってみた。
会場は東京・市ヶ谷。正式には「国立印刷局市ヶ谷センター」となっているけど、行ってみると「元財務省印刷局」の「体育館」にしか見えない。だって元財務省印刷局の敷地内にある広い会場にバスケットボールのゴールがいくつもあるところなのだから。多くの国民は「体育館」と呼ぶ場所だと思う。「そもそも元財務省印刷局、現在の国立印刷局が体育館を持つ必要があるのか事業仕分け人たちの意見も聞いてみたい」とか、隣に「お札と切手の記念館」があるので「場所がお札の記念館の横というのもお札の大切さを感じさせようということもあるのか」とか、いろいろ考えながら入ってみた。日本の公共空間にはめずらしくここは土足禁止。スリッパに履き替えないといけない。日本でこうしたことをしなくてはいけないのは体育館くらい(しつこいか)。

といろいろ考えながら、実際に事業仕分けの現場を見てみた。
僕が見たのは国土交通省所管の「まちづくり交付金」について、だった。
まず、まとめ役の国会議員が役所側に説明を促す。「では、まちづくり交付金事業について、国民のみなさんに説明してください」。
おお、「国民のみなさんに」、というのか。いきなり新鮮だった。というかすべて新鮮だった。たしかに議論のやりとりを見ていると、ある種痛快な部分もあるし、ちょっと役所の人がかわいそうなところもある。

事業仕分けではたとえばこういう議論がなされている。

仕分け人 : なぜまちづくり交付金という形で国が自治体に関与しなければならないんですか?
役所 : 国が関与すると言っても、道路でも港湾でも自治体の自由にしてもらってますから。
仕分け人 : 自由にしてもらってるんであれば関与する必要はないじゃないですか。
役所 : でもそこは国の都市政策というものがあるわけでして。
仕分け人 : だったら自治体の自由にということにならないじゃないですか。
役所 : 基本的な都市政策の範囲内という中で自由にしてもらっているということですし、そもそも小さい規模の自治体になると普通建設事業費が1億円くらいのところもあるわけです。そこにまちづくり交付金が1億円プラスされるとそれで事業が円滑にできるということもあるわけです。
仕分け人 : といいますが、そちらから出していただいた資料によると、まちづくり交付金の90%以上が政令指定都市と中核市に使われていますね。ちっとも小さな自治体に使われてないじゃないですか。

と、こんな感じだ。

こういう議論が1時間くらい続き、10人強の仕分け人が評決を下す。この事業は「地方へ移管」になった。

ただ、だから、即「地方へ移管」と予算で決定されることにはならない。あくまでも予算査定の参考とする、という位置づけだから。
でも僕はそれでいいと思う。これで予算を決めてしまうのであれば、財務省主計局はいらなくなってしまう。
この「事業仕分け」の仕掛け人であり事務局を務めてもらっているNPO構想日本の知り合いのディレクターもこう言っていた。
「事業仕分けについて、みんな廃止とか削減とか結果ばかりを言い過ぎているように思います。限られた時間で議論するわけですから、そこで出された結果に絶対的な正しさがあるとは私も思っていません。大事なことは、予算や事業のことについて、役所の要求部署と査定部署が密室で行うのではなく、市民感覚での指摘を受けること、それをオープンな形で行うこと。ここに最大の意味があるんです。市民からの指摘を直接受ければ『ああ、こういう見方もあるのだな』と感じるでしょう。その感覚を忘れずに事業を組み立てることが大事で、そうすればお金を使うときも大切に使ってもらうことにつながるのではないでしょうか」。

この事業仕分け、11月11日から17日まで開かれ、24日に再開し27日まで続く。

インターネットでも同時中継している。リアリティがあるし、わかりやすいやりとりだ。納税者としてぜひ一度ごらんあれ。

http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/live.html


平成21年11月10日(火)
第332号「ダークエネルギーとセーラームーン」

先週末の日曜日、福岡市で「宇宙の謎に挑む 日本の貢献」と題するシンポジウムが開かれた。

佐賀県が福岡県と共同して取り組んでいる国際リニアコライダー関連の基礎科学系のシンポジウムで、会場には佐賀大学をはじめとする学生や学校の物理の先生など450名が集まったが、講演3本とパネルディスカッションがいずれもすばらしく、内容の濃いシンポジウムとなった。

そもそも開会前の打ち合わせのときの会話がおもしろかった。数人の物理学者や天文学者に交じって僕と麻生知事がいて食事をとりながら話をした。
交わしていた会話はたとえばこんなことだ。

古川:
残念なのは高校の物理Uでも素粒子物理学の基礎的な事柄、クォークとかレプトンなどが載ってるんですけど、これが教科書の最後の数ページなんです。授業ではここまで行き着いてないんじゃないですか。しかも、入試ではこの部分を出さない大学も多いみたいですし。

学者A:
歴史の分野の現代史といっしょですよ。歴史にしても物理にしても最後のページから教えるようにならないですかねえ(笑)。

古川:
物理でもなんでもわかっていることを知識として教えてしまうんじゃなくて世の中ここがわからないんだということを教えてもらうとわくわくするんじゃないですかね。

学者A:
そうそう。最先端ってのはほんとおもしろいんですよ。最先端のところで何かが起きるとニュースになりますから。

古川:
宇宙のことは逆にわからないことだらけですよね。

学者B:
そうなんですよね。宇宙にはよくわからないものが2種類あることが確認されているんですよ。よくわからないから「ダークマター」や「ダークエネルギー」と呼ばれているわけですけど。
それがどれくらいの割合で存在しているかというと、ダークエネルギーが宇宙の74%、ダークマターが22%。つまり宇宙全体の96%がよくわからないものから成っていて、原子だ電子だと素性のわかっているもの(バリオンといいますが)つまり世の中に存在するものすべて、とわれわれが思っているものは実は宇宙の中のわずか4%にすぎないんですよ。

学者C:
ダークエネルギーってセーラームーンに出てきますよね(笑)。

学者D:
ダークエネルギーという言葉は誰が言い出したんだっけ?

学者B:
マイケル・ターナーですよ。

学者A:
ターナーに聞いたら、子どもがダークエネルギーという言葉を使ってて、それをヒントにしてこの言葉を考えたって言ってたなあ。

古川:
セーラームーンっていつごろの作品でしたっけ?

学者C:
90年代でしょう。あれけっこう外国ではやりましたよね。

学者A:
僕、ヨーロッパの映画館で観た。

学者B:
ターナーがこの言葉を言い出したのって90年代じゃなかったっけ?

学者C:
90年代から2000年にかけてくらいじゃない?

というところで時間になった。


いくつか補足すると、
1 たしかにターナー博士はあるインタビューで、「ダークエネルギー」という名前についてこう答えている。
「名前は短くて覚えやすくてある程度正確であることが必要です。必ずしもとても正確である必要はありません。ブラックホールなんてとてもいい名前です。正確ではありませんが」
なんかそれらしいではないか。

2 セーラームーンに出てくるダークエネルギー(正確にはダークエナジー)とは、宿敵ダークキングダムが持っているアイテムの一つで、要はものすごい必殺技。ドラゴンボールでいうところの、ベジータがスーパーサイヤ人になる感じだ。

ランチを食べているだけでこれだけの話が飛び交っている。本番がおもしろくなかろうはずがない。学者の人たち、とくに異分野の人たちの集まった雑談の場は、知的だしユーモアがあるし脳細胞がぴちぴちする。ひょっとすると素粒子物理学用語としての「ダークエネルギー」はセーラームーンが語源かもしれない、なんて大発見だ。

シンポジウムの最後はパネルディスカッションでフロアからの質問がたくさん寄せられた。
たとえば、国立天文台がハワイに持っている「すばる」望遠鏡での最新の宇宙観測の状況をお話してくれた国立天文台の先生はプレゼンテーションの中で、「今年はすばるができて10年目です。この間、よく働いてくれたすばるに私からスイート10ダイアモンドをあげたいと思います」と、スライドに映っているすばる望遠鏡にダイアモンドリングをかけてその労をユーモラスにねぎらっていたが、そのことについての質問があった。高校生からだった。
「あのスイート10ダイアモンドはいくらくらいするものですか?」
壇上で「ええっ!?」という感じで戸惑っているその先生にフロアの最前列におられた某学者先生が小さな声で助け舟を出された。「天文学的数字!!」
にこっと笑いながらも先生の答えはそれ以上だった。
「すばるが10年間生み出してきてくれた成果というのは計り知れないくらい大きいものがあります。値段はプライスレスです」

おお、かっこいいじゃないか。


ふるかわ 拝

平成21年11月3日(火)
第331号「森正洋の全仕事展」

いま、有田にある九州陶磁文化館で「森正洋の全仕事展」が開かれている。11月23日(月)までだ。
九州陶磁文化館はこれまで古陶磁や陶芸を展示することをメインとしてきた。古いもの、伝統的な工芸、芸術性のある作品などだ。
一方で、やきものには日常生活で使われるもの、といういわば当たり前の側面もある。というか、普段の生活の中ではそちらがメインだ。
日常生活で使われる陶磁器は多くの場合、工場で量産されたケースが多い。こういうものを産業陶磁器と呼ぶ。
そういう考え方を反映して、毎年GWの時期、ということは有田陶器市のときに開催している「九州山口陶磁展」においても、第一部が美術工芸品・オブジェ、第二部が産業陶磁器となっている。
森正洋さんがやってきてこられたことは、いわば第二部産業陶磁器の世界の仕事だ。
和食の店に行くとよく見かける白くて先っぽが細くなっているしょうゆ差し。あれをデザインしたのが森正洋さんだ、といえばわかるだろうか。


G型しょうゆ差し(1958年デザイン)写真提供:合同会社 森正洋デザイン研究所

今回開かれているこの展覧会は、産業陶磁器をこれだけ九陶で展示したという意味でははじめてと言っていいだろう。また、塩田町(現在の嬉野市)に生まれ、有田で学んだ森正洋さんの展覧会が県内ではじめて開かれる、ということもたいへんに意義深い。産業陶磁器という世界は、デザインは森さんがされるにしても製造はメーカーだし、場合によってはたとえば無印良品というブランドで出ているものもある。こうした権利関係の調整も大変なものがあると思う。協力していただいた個人や会社の方々に心から感謝したい。

実は森正洋さんは、佐賀県よりも長崎県においてより高名だった。佐賀県に生まれそして育った僕が森さんの名前をはじめて聞いたのは長崎県商工労働部長時代のことだった。
有田に接するやきもののまち長崎県波佐見町の白山陶器をはじめとする磁器のメーカーの方から佐賀県出身の森正洋という傑出したクラフトデザイナーがいらっしゃることを伺っていた。

伝統的な花鳥風月の文様をあまり好まず、現代的な暮らしの中で使ってもらえるものを目指す、という森正洋さんのスタイルはまことに明快。
ふと気がつくと、僕の家の食卓にも平めし茶碗をはじめとする森さんデザインのものが日常的に使われている。
森さんの平めし茶碗はデザインもおもしろいのだが、薄手のわりには熱々のご飯を盛りつけてもその熱さが手に伝わらずに持つことができる。
ここがデザインと機能とを両立させる森正洋デザインの真骨頂ではないかと思う。

森正洋さんを知って数年後、僕は知事選挙に出馬するために佐賀に戻った。どこかで暮らさなければならず、アパートを探した。
友人から佐賀駅にほど近いあるマンションを紹介された。マンション自体の外観は普通だったが紹介された空き部屋は漆喰で塗られていて、しかも木の使い方もすてきなおもしろい部屋だった。思わず、「この部屋、どこかの建築家が改造したのですか?」と尋ねたら、「若手建築家や職人の集団が佐賀で早稲田バウハウスというワークショップをやっていて、この部屋はそのバウハウスの講師を務めた人の設計によるものなんです。」とのこと。どうやら普通の部屋を大家さんが改造したらしかった。
その早稲田バウハウスの運動を中心になって進めておられたのは早稲田大学理工学部建築学科の石山修武先生だったのだが、そのメンバーのひとりが森正洋さんだった。
ここで森正洋さんの名前を聞くとは思わず、これも何かのご縁とその部屋で暮らすことにした。
数十日後、おかげさまで知事選挙に当選した僕はその部屋を出て公舎に移ったがその部屋への愛着は捨てがたく、その後2年間くらいはその部屋を事務所として使っていた。

生前の森正洋さんと僕がお目にかかったのはたった一度、当選した年の8月。佐賀市にある名刹・願正寺で開かれたシンポジウムでのことだった。
当時、森さんはすでに体調を崩されていて、シンポジウムの合間は身体を横にして休んでおられた。たしか筒井ガンコ堂さんがコーディネータだったと思うが、森さん、石山先生と僕とでパネリストを務めたように思う。
今回、そのときのシンポジウムに関わった人にお尋ねしたらこう言われた。「実はあのとき森さんは相当身体がお悪くて、普通ならシンポジウムに出るという状況ではなかったんです。でも新しい知事がシンポに参加するというので、そういう機会があるのならぜひとも言っておかなければいけないことがあるから、と参加されたのです」
「そのとき、何を私におっしゃりたかったのでしょうか?」「有田窯業大学校のことです。正式大学への移行を進めるというけれど、具体的にどういう方向で行こうとしているのかが気になっておられたようです。先生は窯業大学校の設立検討メンバーの一人ですから」
僕は最初の選挙のマニフェストで「窯業大学校の正式大学への移行を検討する」と書いていた。そのことが気になっておられたらしいのだ。
「ただの4年制化ではだめで、何のためなのか、何をめざすのか、を明確にしていかないといけない。先生はそう私たちにはおっしゃってました」

この春、窯業大学校は4年制化した。というか4年のコースも作った。ただ、もちろん、これが完成形とは思っていない。さらによりよいものにしていくための努力を重ねていかねば。あらためてそのことを確認した展覧会だった。

ぜひともみなさん、有田まで足を運んで観ていただきたい。


ふるかわ 拝