2011年11月

平成23年11月29日(火)
第437号「サガン鳥栖 (ほぼ)昇格確定!」

11月27日(日曜日)、サッカーJ2で2位と昇格圏につけるサガン鳥栖が3位の徳島とアウェイで対決、3-0と見事に勝利した。J2からJ1に昇格できるのは上位3チーム。最終節での試合が残ってはいるものの、現時点で4位との得失点差の「差」が20あり、最終戦において通常サッカーの試合ではありえない、例えばラグビーのようなスコアにならない限りは逆転されることがないということで、事実上J1昇格が濃厚になった。翌朝の新聞の見出しは「昇格確定」「昇格ほぼ確実」となっていて、要するにそういうことだろう。
この試合の終了の瞬間、僕は佐賀市内のパブリックビューイングの会場にいた。大画面を見つめる約300人の真剣な表情。試合もさることながら、僕はその画面を見つめる人たちのまなざしに惹かれていた。試合終了とともにはじけるような歓声と拍手。そしてはじける笑い声と時折見られる涙。
それもそのはずだ。サガン鳥栖はJ2が始まった1999年からずっとJ2のメンバーなのだ。J2創設以来のチャーターメンバーでありながら、その後J2に加盟してきたクラブに次々にJ1昇格が先を越され、「J2の門番」と揶揄され、チャーターメンバーで唯一J1昇格ができていないクラブとなっていた。

僕が佐賀県知事に就任した2003年、サガン鳥栖は経営危機に陥っていた。試合も負けが多く、2003年は3勝30敗の12チーム中12位、2004年も8勝25敗で12チーム中11位。当時の社長を解任すべきなどという意見も出ていて、毎年チームの存続が話題に上り、ある意味どうしようもない状態になっていた。
僕は長崎県にいたころ、佐賀県を見ていて佐賀県がうらやましかった。J2のチームがあるのだ。当時は長崎県に本拠を持つプロサッカーチームはなく、そこから見ると、J1、オリンピック、ワールドカップと続く可能性を手にしていることが魅力的に映っていた。
だからこそ、J2のクラブチームのある県の知事になった以上、なんとか常勝チームと言わないまでも強いチームにしていきたいと考えていたが、そんなに簡単なことではなかったのだ。
とにかく、戦力面でも弱いし、経営基盤も弱い。監督には松本育夫氏というビッグネームの方に来てもらうことができたものの、それだけではなんともできない。Jリーグから経営の刷新の必要性を通告され、関係者で新しいオーナーを探すことになった。そういう中で、名前が浮上してきたのが佐賀県出身の実業家井川幸広氏だった、当時井川氏とはサッカーとは違う分野で県政として知恵をお借りしていたが、あるとき社長室に、とあるJ1チームのサッカーのポスターが貼ってあることに、そこを訪問した県職員が気づいた。「社長、サッカーお好きなんですか?」「僕はもともとサッカー少年だよ」。

それがはじまりだった。いろいろ大変なこともあったが、最終的に井川さんがサガン鳥栖を引き受けていただくことになったのが2004年の12月。新しい株主やスポンサー探しも協力しながら、形を整えて2005年2月に新生サガン鳥栖として再スタートした。その後2008年に佐賀県としても出資をした。経営責任の一端を担うことになったということだ。

とはいえ、新生サガン鳥栖もいっぺんに開花したわけではなかった。その年は8位、その次は4位と健闘したものの、最近では5位、9位。2006年のように4位まで行った年もあったものの念願の昇格にはあと1歩届いていなかった。この間、佐賀県庁も必死になってサガン鳥栖を支え続けた。少し勝つと負ける。ここぞ、というところで力が出ない。お客さんがたくさん入ると勝てない。そういう時代も続いた。そういう中でも、僕が思っていたことがある。それは「プロサッカーチームが佐賀県にある幸せ」ということだった。

今年はそういう過去を捨て去って、堂々たる試合ぶりで昇格をほぼ手中にすることができた。
苦しいときが多かったからこそ、今年、昇格をほぼ確実にするところまで来ているのがほんとうに夢のようだ。
1994年、佐賀県にプロサッカーのチーム(PJMフューチャーズ、1995年に鳥栖フューチャーズに改称)がはじめてできた年から数えると、実に18年かけてJ1への切符が手に入ろうとしている。

その夢の瞬間はまもなくだ。

最終的な昇格決定は、Jリーグの理事会を経てということになるが、昇格条件であるJ2リーグ3位以内が決定するのは、12月3日(土曜日)12:30からホームのベストアメニティスタジアムのロアッソ熊本戦後になる。

ひとりでも多くの人にスタジアムに来ていただいて、喜びをともにできれば、と思う。


ふるかわ 拝

平成23年11月22日(火)
第436号「チャンピオン・サケ」

ちょっと前のことになるが、10月5日水曜日、IWCで最高の評価を得た「鍋島 大吟醸」の受賞報告会が佐賀市内で行われた。
IWCとは、国際捕鯨連盟ではなく、international wine challenge の略。世界最大級の国際的なワインコンテストで、この大会においては、ワインだけでなく4年前から日本酒も評価の対象となっている。
このチャンピオン・サケの選定方法はこうだ。まず日本酒の中でこれは、と思う日本酒の蔵元がこの大会にエントリーする。その数、2011年の場合468銘柄。そしてその中から第一次審査として金・銀・銅メダル及び推奨酒が決定される。その後、第二次審査が行われ、その中で純米酒、本醸造酒、吟醸酒・大吟醸酒などの5つのカテゴリー別にいくつかの日本酒(基本的には各カテゴリーごとにひとつ)が選ばれ、トロフィーという称号が与えられる。それらがいわば決勝トーナメントに残った印、陸上選手でいえばファイナリストということになる。(2011年の場合は7銘柄)

その7つのトロフィー受賞銘柄の中から、1銘柄だけをトップに選ぶ作業が行われ、その年のトップの日本酒が決定される。それが「チャンピオン・サケ」となる。その2011年大会において、佐賀県・富久千代(ふくちよ)酒造の「鍋島 大吟醸」がチャンピオン、その名も「チャンピオン・サケ」に選ばれたのだ。

この鍋島の受賞を記念して、私のところに関係者の方がご挨拶に来られた。蔵元の方だけでなく、唐津と佐賀と鹿島の酒屋さん(小売店)が来られていた。
受賞された酒造会社の社長がこういわれた。「この酒はみんなで造った酒なんです。」 この言葉にはそれなりの意味があった。というのも、最初から「佐賀県を代表する酒を造ろう」ということで集まって造り始めたのがこの酒だという。

どういう酒にしたいのか。議論をし、実践をし、酒づくりが進められ、地域おこしの仲間であり現在は県議会議員をされている鹿島在住の方がゴッドファーザーとして名前を付けられた。それが「鍋島」。堂々たる名前だし、よくもまあ、この名前が残っていたなとも思う。「この名前をつけるときには鍋島報效会にもご挨拶に行き、名前を使うことについて了解をいただきました。」とのこと。
その分、苦労もあった。このあたらしい「鍋島」を売っていくため、それまであった「富久千代」という伝統ある名前のお酒をやめてしまったのだ。いくらいい名前だ、いい酒だ、と言っても無名の酒が売れるような簡単な世界ではなく、社長は「とにかく売るのが大変でした。妻にも迷惑をかけました」という。
「鍋島」のスタートは2003(平成15)年。僕がこの仕事に就いたのと同じ年だ。それから9年。こうして世界一のタイトルを鍋島は手にすることができたということになる。

5日の祝賀会も大いににぎわった。なんかみんながわがことのように喜んでいた。その意味は、ふたつある。ひとつは仲間が世界一になったという嬉しさ、もうひとつはあいつがやれるんなら自分にもできるんではないか、という燃えるような気持ち。まさに、今回の受賞は、鍋島を造った蔵元だけでなく、多くの佐賀県内の蔵元にとっても励みになるし、名誉だと思うし、そして、その佐賀県の日本酒のレベルアップに佐賀県独自の日本酒・焼酎の認定制度「原産地呼称管理制度」が役に立ったに違いないと、この制度の発案者の一人としてひそかにうれしく思う。

九州というと、「焼酎でしょう」と言われることが多いが、佐賀県は九州の中では断然日本酒王国で、つい最近まで日本酒の消費量のほうが焼酎より多かったくらいだ。
この蔵元の地元、鹿島市にも、ほかにもたくさんのおいしいお酒を造る蔵元がある。今回の受賞を機に、こうした酒蔵をめぐるツアーなどができてくるといいなと思う。
来年1月には佐賀空港に中国の春秋航空が就航する。できれば、国内外の方に、こうした日本酒の香る街並みを探索していただくのもいいのではないかと思う。地元では、今回のことに呼応し、既に「鹿島酒蔵ツーリズム推進協議会」が発足しており、心強いかぎりだ。ぜひ今回の受賞を、地域の活性化につなげていければと期待したい。
地元鹿島でもこの「鍋島 大吟醸」の祝賀会が、11月27日、今週の日曜日に開かれる。これもまた楽しみだ。


ふるかわ 拝

平成23年11月15日(火)
第435号「北斗市で観たもの」

2か月ほど前、週末を利用して、北海道の函館の隣町、北斗市に行ってきた。「第6回北海道ユニバーサル上映映画祭」のシアターフォーラムに参加して、「バリアフリーさが映画祭2011」(11月25日〜27日)のことをアピールするためだ。北斗市に行ったのは初めてだったが、ちょっと懐かしい思いもあった。

北斗市にはあと数年で新幹線の終着駅ができる。新函館駅という名前だ。新「函館」駅ながら、函館市にはなく、北斗市にできる。つまり、函館市には新幹線の駅はできないということだ。そして、その新函館駅と函館駅との距離は20キロ近く離れている。これは肥前鹿島駅と嬉野温泉駅(仮称)との間の距離よりも遠い。ということもあって、長崎新幹線着工問題のときにはこの地域のことをいささか勉強していたのだ。

その地に今回足を踏み入れることになった。
なので、できるだけ公共交通機関を使いたいという思いもあって、函館空港から路線バスで函館駅前まで行き、そこから木古内行きのJR江差線普通列車に乗って、北斗市の会場に向かった。僕はよくJRのローカル線を使う。がらがらの状態をイメージする人が多いと思うが、そうでもない。もちろん高校生が多いが、この普通列車はそれだけではなく、高齢の方も多く、一両だったが座る席が空いてなく、しかも、暑くて、ひょっとして暖房が入っているのでは?と思わせるほどだった。

さて、「ユニバーサル上映」というのは、障碍を持った方たちをはじめとするいろんな事情を抱えた人たちに対して映画を楽しむ環境を整えて上映すること、だ。
「バリアフリー上映」と呼ばれることもある。この場合は、視覚障碍者、聴覚障碍者が楽しむことのできるように副音声や字幕をつけて映画を上映することをさしているが、この「ユニバーサル上映」では、バリアフリー上映よりはさらに意味を広くとらえ、車いすの人の席を指定席ではなく自由席にして席を選べるようにしたり、託児所を作ったり、など独自の工夫を凝らしている。この映画祭の実行委員会の方たち自身も、映画に字幕や副音声をつける作業もされていて、たいへん熱心に取り組んでおられるのだった。

会場そのものは1,000人も入るような大きなものだったが、残念なことに参加者の方はとても少なかった。普通であれば、「残念でした」で終わるのだが、このシアターフォーラムはちょっとちがった。当日は10人くらいのパネリストがそれぞれの取り組みを発表し、それに対して会場から質疑をする、という方式だったが、この10人のパネリストの人たちの発表内容がすばらしかったのだ。全盲で芝居をされている役者、NHK手話ニュースのキャスター、京都や横浜でこうした上映活動をされている方の報告など、全国各地でさまざまな取り組みがなされていることが報告された。

僕は、「バリアフリーさが映画祭2011」の今年のトピックや、東京国際映画祭にもバリアフリー部門ができたことなどを報告したうえで、「こうした映画が特別なもの、ではなく、当たり前になるように仕組みを作っていきたい」と述べた。すでに作られた映画に後から副音声や字幕をつけることは権利関係のこともあり、難しいことも多い。それに、製作者と関係なく副音声や字幕が作られると、「そこが重要」。「そこはあえて言わないでほしい」なとどいう微妙なところが製作者の意図と違ってしまう可能性もある。というか、そうなってしまうだろう。
ということもあって、僕は、映画を製作するときには最初からバリアフリー版も作っておく、ということを当たり前にすべきだと思うようになった。それをいろんな人たちと一緒になって実現していきたいと思っている。

いま、映画の世界では3D化が進んでいる。このような、映画を楽しむための技術がどんどん進んでいるのだから、バリアフリーについてももっといろんなことが可能になるのではないかと思っている。
たとえば、3D用のメガネはすでに実用化されているが、「そのメガネをかけると自分用の字幕が出る」、というメガネもいま開発されている。現在まだ試作の段階で、今年の「バリアフリーさが映画祭2011」で体験試写会が開かれる予定になっているのだが、こうしたものの開発も、バリアフリーを当たり前にする、ことの一つだと思う。
そういうことをいろいろ考えるいい機会だった。

ところで、函館空港から乗った函館駅前行き路線バス(函館バス 96系統)で感心したことがあった。すべての車内放送が日本語のほか、韓国語、中国語、英語の4か国語で行われていた。バス停の一つ一つについてもすべて。空港から函館駅前行きのバスだったから、ということもあってだろうと思うが、こういう4か国語対応も「特別」から「当たり前」になっていくのだろうと思った。

帰り、佐賀空港に降り立って、そこから路線バスで自宅に戻った。そのバスは、一部の区間は英語の放送が入っていたが、「すべての区間」「4か国語」ではなかった。ただ、聞いたところによると、佐賀市営バスでは来年1月の春秋航空の就航に向け、バスの車内放送も変えていくという。
外国人観光客をお迎えするため、いろんなところで準備が始まっているのだな、ということを感じた。


ふるかわ 拝

平成23年11月8日(火)
第434号「関西広域連合との災害応援協定」

10月31日、宮崎市で開かれた九州地方知事会で、関西広域連合と九州地方知事会との間で災害時において相互に応援する協定を結ぶことが承認された。
関西広域連合では、すでに10月27日にこの内容で承認されている。そしてこの協定の調印式は今月中に行われる予定だ。本来であれば、関西広域連合の連合長の井戸兵庫県知事と九州地方知事会会長である広瀬大分県知事とが調印をすることになるのだが、この協定締結を発案し、調整を行ってきていたのが僕だったということで、広瀬会長のお心づかいで僕も調印に立ち会わせていただくことになった。
県の区域を超えた広域的な圏域同士がお互いに災害時には応援をすることにする、という協定は、全国ではじめて。災害時の応援協定だから活用されないに越したことはないのだが、いつ起きるかわからないのが災害。その意味で安心感の一助になることにはまちがいないだろうと思う。

なぜ、関西広域連合との間に結ぶことにしたのかといえば理由がいくつかある。
もともと関西とやったらどうか、という提案は樋渡武雄市長からあった。彼は総務省時代に大阪府の高槻市に派遣されていたことがあって、その縁で武雄市と高槻市は今回の震災後、災害時の相互応援協定を結んだ。「これを九州と関西ぐらいの単位にすると、もっと効果のあるものにできるのではないでしょうか」という樋渡市長の考えを耳にして、僕もそのとおりだと思った。それがきっかけだった。

相互に応援し合うためにはいくつかの条件が必要だが、そのうちもっとも必要な要件は、「同時に被災しないこと」だ。距離的なことからいえば、中国地方や四国と協定を締結するほうがいいかもしれないが、隣接する地域というのは同時被災する可能性がある程度高い。
だからといって、あまりにも遠いと、これはこれで大変。
つまり、「ちょうどいい距離にある」ことが大事になる。
その意味では九州と関西というのは(もちろん同時被災の可能性がゼロとはいわないが)ちょうどいい距離にある、と僕は思った。

しかも、お互いに持ち味がある。関西広域連合は、阪神・淡路大震災の経験があり、今回もその経験を生かして、東日本大震災の被災地において機動的に活躍されている。
一方、九州は台風被害などの経験は多い。お互いの経験を活かすことが可能になるのではないか。
そう思って、さっそく広瀬大分県知事(九州地方知事会長)、井戸兵庫県知事(関西広域連合長)と相談をし、事務的に詰めた結果が今回の協定になった、ということだ。

今回の協定にはいくつかの特徴がある。
ひとつは、災害をふわっと定義したことだ。何をもって災害というのか、法律のように細かく規定してしまうのではなくて、「とにかく応援が必要な事態になったら助け合いましょう」ということを基本にした。(ただ、口蹄疫や新型インフルエンザなどは助けに行く、というよりまずはそれぞれの地域が拡大防止や侵入・蔓延防止対策をとらなければならなくなるので除外した。)

もうひとつが「対向支援」を明示したことだ。対向支援とは被災地を支援する際に、支援する相手方を特定して実施すること。たとえば、佐賀県は宮城県気仙沼市に対向支援しているが、これは佐賀県としては、たくさんの被災地の中でも気仙沼市を重点的に支援している、ということだ。こういうやり方を関西広域連合は東日本大震災の支援に際して実施した。
相手方が見えてくると、必要な支援や復興の状況もさらに見えてくる。そういうことを関西と九州との間でも実施することにした。

さらにもうひとつは、日ごろから訓練なども一緒にやりましょう、ということを決めたこと。
日ごろからのお付き合いがあれば、いざというときも意思疎通がしやすい。これも協定内容に取り込んだ。
内容を詰め、関西広域連合内、そして九州地方知事会を構成する各県でも議論をしていただいて、今回の締結に至った。

この協定は思わぬところで効果を発揮した。
この協定を結ぶことについて、関西広域連合、九州地方知事会それぞれ方向性については理解を得た後、最終的な詰めを行っていた本年9月、台風12号による大きな災害が起こり、甚大な被害が関西地方、とくに和歌山県と奈良県で生じた。
災害発生後、井戸知事から僕に連絡が来た。「今回の災害でとくに和歌山県が大変な状況になっている。土砂ダムのことをはじめとして土木の復旧が必要。ぜひとも九州地方知事会として災害復旧の要員を派遣していただけないだろうか。この協定の前倒しと思って」。そういう内容だった。
すでに東日本大震災対応で、各県とも相当数の土木をはじめとする職員を現地に派遣している。これにさらに加えて、ということができるのか。しかも、これから年度末。事業を抱えているところでは忙しくなっているタイミングだ。今回の派遣は長期になることはわかっている。それだけに悩ましい。しかし、和歌山県が未曾有の被害を受けたことはよくわかっている。しかも、もともと関西広域連合と九州地方知事会とで協定を結ぼうとしているさなかではないか。それを頼りにして、「なんとかならないだろうか」と連絡をしてきておられる、ということを考えれば、ここはやはり少々無理をしても、九州地方知事会として協力することが必要なのではないか。
そう考え、ただちに広瀬会長に連絡をとった。会長はいろいろ考えておられたが「そういう状況であれば、協力しよう」と決断していただいた。

いま、九州各県から10名の土木職員が和歌山県で災害復旧の作業に従事してもらっている。派遣している九州各県の現場は大変だが、関西広域連合としても、九州地方知事会との協定のおかげで和歌山県に技術職員を派遣してもらうことができていることは十分に感じていただいている。いつかはこちらが助けてもらう側に来ることもあるのではないかとも思う。


ふるかわ 拝

平成23年11月1日(火)
第433号「瀋陽代表事務所 開設!」

先週は中国出張だった。
行先は遼寧省の省都・瀋陽。2003年以来9年ぶりの訪問だった。

2003年にこの地を訪問したときは、「これから」の地域だった。「まだまだ」の地域といってもよかったかもしれない。もともと、東北部といえば、石炭をはじめ重化学工業が盛んで、とりわけ国有企業が多くを占めていた。ご多分に漏れず、国有企業は中国においても効率性が低く、その改革が求められ、それが実行されていた。「これを実行しなければ東北の未来はない。」当時、面談した薄熙来遼寧省長はそうおっしゃっておられた。
その後、国有企業改革は成功し、民間主導の経済成長が始まった。「東北振興」は中国政府としてのスローガンにもなった。そして着実に成長を遂げるようになり、今日に至っている。遼寧省の年間の経済成長率は14.1%。これは中国全体の成長率を上回るペースだ。さらには、省都瀋陽の成長はさらに遼寧省全体を上回っている。今回の訪問はそういう成長の只中にあるところに行われたということになる。

今回、遼寧省政府の大歓迎を受けた。省都瀋陽として、はじめてとなる日本の自治体事務所の設置。それに佐賀県と遼寧省との間の友好協力パートナーシップ協定の締結。ふたつの慶事が重なった。
これまで遼寧省に日本の自治体事務所がなかったわけではない。ただ、それらはすべて大連に設置されていて、瀋陽にはひとつもなかった。中国の経済発展はまず沿海部から始まった。遼寧省の中でも大連のほうが瀋陽よりも所得も高かった。高速道路や新幹線の整備もできてなくて内陸部と港を結ぶ物流・人流のルートができていなかった。それが近年中国・東北経済圏の発展によって、経済成長の波が内陸部に押し寄せてくるようになった。
今回、なぜ瀋陽を選んだのか。その答えはそこにあった。遼寧省とはこれまでの17年にわたる交流の歴史を積み重ねてきている。お互いの信頼関係ができている、というのは大きい。そして東北部、ことに瀋陽を中心とする遼寧省内陸部はこれからの発展が大いに期待される地域だ。
一方、大連と違って瀋陽にはまだ日本の自治体や企業の進出も本格化しておらず、これから増えていくものと予測している。その伸び行く大・瀋陽経済圏の発展を、少しでも佐賀県経済や企業の発展につなげていきたい。そのサポートをするのが瀋陽代表事務所でなければならない。
これが僕の瀋陽への事務所設置にかける思いだ。しばらく時間はかかるかもしれない。いろんなことが簡単にはいかないかもしれない。しかし、チャレンジする価値はあると信じている。とにかくいい事例をまずはひとつでいいから作り上げていきたい。

今回は、在瀋陽日本国総領事館からも大きなバックアップをいただいた。松本総領事も空港で出迎えていただいたのをはじめ、各種のセレモニーにもご臨席を賜り、ご挨拶もいただいた。現地政府と現地日本国総領事館のサポートがしっかり得られる状態での船出となったことは実に心強い。
松本総領事は、東北三省をご担当されて駆け回っておられるが、総領事から「毎月一度開催している温泉フォーラムにぜひ佐賀県瀋陽代表事務所からのご参加を」と声をかけていただいた。東北三省の方に日本の温泉の良さを知ってもらおうというセミナーだ。喜んで参加させていただくことになるだろうと思う。

中国滞在中、たくさんの方と面談した。それは中国側の熱意の表れだったと思う。その中で、僕からは、省都・瀋陽市にはじめての事務所設置ということとあわせて「今回は132名の訪問団とともにこの地を訪れている」ことを述べるようにした。この132名という数は、訪問団としてはもちろん佐賀県政史上最多の人数ということになるのだが、少々のことには驚かない中国の人もこの数を申し上げるとしばしばどよめきが起きた。ちょっとうれしかった。これだけの参加人数が確保できたのはそれだけ佐賀県民の熱意と期待が高かったということだと思う。

その双方の熱意が表れたのがビジネス交流会だった。遼寧省側は事前エントリーの30を上回る企業が参加してくれた。これは大変な数。遼寧省政府が力を入れて準備してくれたおかげである。
一方で、佐賀県側の参加企業・団体数は40。これも多い。
この交流会のアレンジをしてくれた代理店の人が二つの驚きを語ってくれた。ひとつは、中国側の参加企業数が多いこと、もうひとつは日本側(佐賀県側)の参加企業が熱心なこと、だった。
交流会では、いろんな企業と企業が顔を合わせ、協力・提携できるところがないか、話をする。そしてうまくいけそうならば話を進めることになる。
今回、参加いただいた佐賀県企業の中には、この交流会の中で中国側の企業との話がとんとん拍子で進み、午後の視察をキャンセルして、その企業の工場訪問に切り替えたところもあった。
たとえが悪いが、合コンで盛り上がった後、二人だけで二次会に消える、という感じ。
とにかく、この交流会もいい成果を生むことができたし、ほとほとさようにあちこちでいろんな出会いが得られたと思う。

前にも述べたように僕が知事に就任したのが2003(平成15)年。その年の10月に遼寧省を訪問し、当時の薄熙来省長と面談して、これから佐賀県と遼寧省との関係強化を図っていくことを約束した。面談そのものは、長い時間ではなかったし当時の遼寧省は国有企業改革で経済的には立ち遅れたままただったが、僕は薄省長のリーダーとしての力を感じ、これから遼寧省は成長していくことになるだろうと思った。今回の事務所開設と協定締結はいわば、そのときの約束を9年かけて果たしたことになる。

「山と山は出会わないが人と人は出会う」という格言がある。今回の中国訪問でたくさんの人と出会うことができた。これをぜひ実りあるものに結びつけていきたい。


ふるかわ 拝