2012年10月

平成24年10月30日(火)
第484号「シハヌーク前国王崩御」

10月15日、カンボジアのノロドム・シハヌーク前国王が入院先の北京の病院で崩御された。
シハヌーク前国王に関して思い出すことが二つある。

僕は、内戦終結後の新しい国づくりのため、1992年から1993年にかけて、国連PKOの手伝い要員として日本国政府からカンボジアに派遣されていた。
僕が担当したのは選挙監視の仕事だった。公正な選挙が行われるかどうかを監視するため、選挙監視要員が各国から集められ、日本からも約40人が参加した。その人たちの安全を確保するのが最大の役割だった。
そのときの選挙は国会議員選挙だったが、個人名を書くのではなく政党名を選ぶ(正確には、政党名とそのシンボルマークにチェックをいれる)というやり方だった。
なぜ個人名を書かないのかというと、有権者の中に読み書きができない人がある程度いるからだ。(そもそも日本のように選挙で候補者の名前を自書させる国というのは、僕の知るかぎりない。)
だから字が読めない人たちのために、各政党はシンボルマークを決めていて「ゾウのマークのところに印を付けてください」みたいなお願いをするわけだ。
では、どんなシンボルマークを使ってもいいのか、というとそうではなく、使ってはいけないシンボルが三つあった。
それは国連とアンコールワット。国連は選挙の主催者みたいなものだし、アンコールワットはカンボジアそのものの象徴のような遺跡だから、これらを政治的に利用してはならない、というのも理解できるところだ。
そして、もう一つがシハヌーク国王だった。シハヌーク国王と関連がある、とかそれを連想させるものも使用禁止となっていた。一部の政党はシハヌークの親族が党首になっていたりしたが、それでも禁止だった。これはシハヌークという人物がある意味で国民統合のシンボルだったから、だと思う。
ちなみに1993年に行われたこの選挙、事前予想では当時の政権党であった人民党の勝利が確実視されていたが、実際に勝利したのはシハヌークの親族が率いるフンシンペック党だった。投票行動にはシハヌークとの距離が反映されたのかもしれない。

もう一つの思い出は、プノンペンで仕事をしていたとき、一度だけシハヌーク国王とおぼしきご一行をお見かけたことがあることだ。
印象的だったのはそのSPと見られる人たちだった。いまふうにいえば、「逃走中」という番組に出てくるハンター(黒服を着てサングラスをして足が速い男たち)のような感じだったのだ。そして顔の雰囲気はどうも南方系ではない。後で聞いたのだが、あのSPは北朝鮮の人たちだということだった。
その後プノンペンには北朝鮮系の焼肉店もできた。そこは焼肉や朝鮮料理だけでなく踊りも見せてくれ、一種の北朝鮮のショーウインドーになっていた。
何人もの女性スタッフがそこで働いていたが、これも聞いたところでは、彼女たちはそのレストランの上の階に集団で暮らし、買い物や移動も集団で行っていて、個人で自由に動き回ることはできないということだった。

北朝鮮のSPを従えていたカンボジアの前国王が中国・北京の病院に長く入院して崩御。これだけでもその背景の複雑さがうかがえる。インドシナ半島がもっとも揺れ動いたこの約百年の歴史の生き証人が一人この世を去られたということは歴史の針が一つ動いた、ということだろう。
大の日本びいきだった東南アジアのリーダーが一人減ったことはまことに残念だが、僕たちの仕事は日本の良き理解者をこれから増やしていくことだと思う。


ふるかわ 拝

平成24年10月23日(火)
第483号「『ら』だってがんばるぞ」

10月17日水曜日、佐賀市諸富町の諸富文化体育館・ハートフルで、佐賀青年会議所主催の佐賀チャレンジド大会が開催された。
テーマは障碍者雇用。青年会議所がこうしたことに関心を持ってくださるのはまことにありがたい。
しかも会場がこのハートフルだというのがうれしかった。「ハートフル」といえばよくプロレスをやっている会場というイメージがあるかもしれないが、ここはまた車いすバスケットボールの練習や試合の会場にもなっているところだ。県内の多くの学校や公立の体育館は車いすバスケットボールには体育館を貸し出していない。そういう中、このハートフルはできたときからまさにハートフルな対応をされている。そういう場所で、この話ができるのもうれしかった。
講師陣もすばらしかった。
基調講演は法政大学大学院の坂本光司教授。
『日本でいちばん大切にしたい会社』などを始め、いい会社やいいものを広めようとして活動されている方で、とりわけ障碍者雇用には熱心に取り組まれている。
基調講演の中で、坂本教授からはうれしいお話を二ついただいた。
一つ目は、坂本教授が手がけておられる幸福度の地域比較のことで。
昨年公表された47都道府県幸福度ランキングでは、佐賀県は上から5位だった。それはそれで気持ちのよい数字だったのが、それに関連してさらにうれしいお話をうかがった。
あまり表には出されていないそうだが、高齢者の就業環境に関する40データを入れて計算したら、実は佐賀県が高齢者にやさしい県全国1位のようなのだ。資料を送っていただけるとのことなのでよく見てみたい。

それともう一つは、「障碍者雇用に関心を持つ人が少ない中、古川知事はこの後のパネルディスカッションに登壇されると聞いている。こういうところに登壇されるというだけで取り組む心意気というのがわかる。すばらしいと思います。」とおほめの言葉をいただいたのだ。
会場で聞いていた僕は恥ずかしいくらいだったが、出席することにしてよかったと心から思った。

そのパネルディスカッション。これまたメンバーがすばらしく、障碍者雇用率が7%超と全国のモデルとなる取り組みをされている株式会社ファーストリテイリングの植木俊行部長、県内で障碍者雇用のモデル的取り組みをしてくださっている西九リネン株式会社の赤石智恵子代表取締役、それと僕だった。

それぞれ障碍者雇用にかける思いやこれからの課題などを実例を交えて話し合った。
たとえば植木さんは、これからは世界中の店舗やグループ全体として雇用率をあげていきたいということを述べられた。この会社が大きくなると、いい社会ができるような気がした。
赤石さんからは佐賀県に対する要望として「特別支援学校で就職にふさわしい人材育成をしてほしい」と強く言われた。
これに対して僕はこう答えた。「これについては私もそう考えているので、中原特別支援学校に職業コースを作りたい。来年度にはカタチにしたい。」

翌朝の新聞各紙を見ると、この大会そのものはどこにも取り上げていただけなかったが、パネルディスカッションについては佐賀新聞の記事になっていた。そこには、こう書いてあった。
「パネル討論には西九リネンの赤石智恵子社長、ユニクロを展開するファーストリテイリング(本社・山口市)の植木俊行総務・ES推進部長らが登壇した。」

僕の名前はなく、この記事を読む限り、僕が登壇したという事実すらわからない。
思わず、「ら」かよ!とつぶやき、まだまだ修行が足りないなと反省。

とはいえ、佐賀県は障碍者雇用の分野では全国的に誇れる内容のある県だと思う。
中原特別支援学校の職業コースについても、先週末の教育委員会で特別支援教育第二次推進プランが決定され、一歩前進した。

「ら」だってがんばるぞ!


ふるかわ 拝


平成24年10月16日(火)
第482号「山中伸弥教授のノーベル賞を心から讃える」

以前、週刊yasushiで山中教授のことを書いたことがある(平成24年2月14日第447号「G1サミット 2012」 http://www.power-full.com/syukanyasushi/syukan2012-2.html )

あらためて読んでいただきたいが、といってもう一度読むのは、という方もいらっしゃることだろう。以下そのときに書いた文章の要約を掲げる。

(以下 第447号「G1サミット 2012」の要約)
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先週末、青森県でひらかれたG1サミットで「iPS細胞が再生医療を実現する日」というセッション(メインスピーカーとして山中伸弥教授がweb参加)を聞いて、山中教授の研究がおかれている深刻な状況を知った。

いま山中教授が活用されている文科省や内閣府の各種のプロジェクト資金が2014年度に尽きてしまい、その後の資金のめどがない。約300人いるスタッフの人件費も払えなくなってしまう。

「とにかく資金を集めなければならない」ので、教授に講演を頼まれた場合は寄付をお願いし、協力してもらっているが、それでもぜんぜん足りない。

また、こうした人類初の研究の際に大切なのが知的財産権の問題。20人くらいいる知的財産権チームのがんばりで、日本のほか、米国や欧州でも基本特許が取れたが、これで安心とは言えない。
「iPS細胞の製作技術はヤマナカが開発した」ということは認められたが、「あのアイデアは俺が出した」と主張するアメリカ人がおり、米国で知財の裁判が起きてくると予想される。裁判となればアメリカの弁護士を雇わないといけない。さらに、審判となれば裁判員のようないわば素人が判断するので、その対応も必要。またお金がかかる。

このように困難な状況ではあるが、山中教授は「これまでの日本人の研究の中で世界をリードしたものは、海外の大学や研究機関で行ってきたものばかりだが、このiPS細胞の研究は、日本人が日本国内で研究して開発して世界をリードしている唯一といっていいもの。なんとか成功させたい」と思っておられる。
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(以上 第447号「G1サミット 2012」の要約)


山中教授の受賞を日本中がよろこんでいると思うが、この研究については僕なりに応援していたので、その分余計にうれしかった。

僕の応援の一つ目は、わずかだが資金的に支援をしたことだ。
今年の2月、G1サミットで山中教授のお話を聴き、これは自分としても何か協力しなければ、と感じた。
各種の資金がこのままだと2014年度で尽きてしまう。これは当時書けなかったのだが、先生は「このままだと2014年度はスタッフに『研究で成果を出せ』といいにくくなる。どうせあと1年で終わりだから。そして、次の仕事をどう見つけていくか、ということをどうしてもスタッフたちが気にするようになってしまう。そういう心配をしなくていいように研究環境を整えてやりたいのだが。」と言われていたのだ。
そういうお話をうかがえば少しでも役に立つことができないか、と思うではないか。G1サミット終了後、そこでお目にかかった山中教授の資金面のお世話をしておられる方に僕がメールを差し上げるようになり、その方から「山中教授が京都マラソンに参加して完走をめざすことになりました。このチャレンジに対して寄付を求める、というやり方で資金を集めたいと思います。」という話をうかがった。
知事という仕事(というか政治家)は、選挙区内では寄付をしてはいけない、という公職選挙法上のきまりがある。でも、これは京都大学の教授に対する寄付で、しかも寄付を受け付ける組織は東京都にある。それなら公選法上も大丈夫なので、ささやかながら寄付をした。
京都マラソンで完走する、というチャレンジは成功し、一定の金額が山中教授の研究費に回った。
たったこれだけで自分が今回受賞した研究に関わったような気持ちになれた。

もう一つは、古川元久国家戦略担当大臣(当時)にお願いをしたことだ。
今年の7月26日、日本酒や焼酎を国酒として世界に売っていこうという国酒プロジェクトの推進のことで、古川大臣にお目にかかった。佐賀県の日本酒・焼酎の原産地呼称管理制度(The SAGA)について高いご評価をいただいていて、そのことを聴きたいということでお話があったものだった。話は弾み、きちんとした品質のものを外国に売っていくことの大切さ、また、酒蔵を外国人観光客受け入れの拠点として考えていきましょう、ということで話は一致した。

話を終えて、大臣とお別れの挨拶をするとき、僕は古川大臣に小さな声で国酒プロジェクトとは関係ないことを申し上げた。
「大臣、科学技術関係もご担当ですよね。京都大学の山中伸弥教授のiPS細胞の研究のことですが。」
大臣がはて、なんだろう、という顔をされた。「ええ、たしかに担当していますが、それが?」
「佐賀県が直接関係しているわけではないのですが、是非これへの支援を引き続きお願いします。あと2年ぐらいで資金が尽きてしまうようですし、そもそも資金が足りないようですから。」
大臣はこう答えられた。「わかりました。あの先生の研究は何がなんでもきちんとしたものにしていただく必要がありますからね。政府の中でもそういう意識で取り組んでいると思います。これからもしっかりやっていきますから。」

もちろん、それがあったからノーベル賞が受賞できたというわけではないのだけれど、この山中教授の研究については、いろんな人が期待していて、いろんなところで応援したり、お願いしたり、している、ということは事実で、そのことが直接、間接の力になっているということはあるのではないか、と思う。

今回の受賞で安心して研究に打ち込める環境が整い、できるだけ早く、創薬の分野を始め待っている人の期待に応えられるようになれば、と心から願う。

受賞決定後、山中教授の研究を支援するための寄付サイトに続々と善意の寄付が集まっていると聞く。ポケットマネーで、日本が誇る山中教授の応援ができて、医学の発展に貢献ができる。とても素敵なことではないか。しかも、受賞のよろこびを人よりちょっと余計に味わえて、かなりお得なのだ。
興味をもたれた方は、是非このサイトをのぞいていただきたい。寄付をした一人ひとりのあたたかい応援メッセージも読めて、うるっとくる。
応援すれば幸せな気持ちになること請け合いだ。
http://justgiving.jp/c/7882


ふるかわ 拝

平成24年10月9日(火)
第481号「岐阜国体の楽しみ方」

9月29日土曜日は岐阜国体の総合開会式。僕は佐賀県体育協会の会長として開会式に臨み、選手団の団長として入場行進した。
この岐阜国体の会期前実施競技の水泳の平泳ぎでは世界新記録が出たのだが、開催地以外ではなかなか盛り上がりがないのが国体。でも、正式には国民体育大会といって、各都道府県持ち回りで毎年開催されるわが国最大のスポーツの祭典なのだ。岐阜県では、昭和40年(1965年)以来47年ぶりの開催となる。

その開会式が先日行われたということだ。
国体では聖火リレーにならって炬火リレーが行われていて、県内を回って開会式会場に運び込まれた火が、最終ランナーの手で炬火台にともされることになっている。

開会式は予定どおり進行し、アナウンサーが「まもなく炬火が会場に到着します」と宣言した。その瞬間、大型スクリーンに47年前の開会式の映像が映し出された。「最終炬火ランナー、岐阜高校3年古田肇選手であります!」と当時のアナウンサーが叫んでいる。
その映像を観て、「あっ」と思った。名前を聞いて、ピンと来た人もいるだろう。

会場に到着した炬火は、ロンドンオリンピック新体操で7位入賞した松原梨恵選手に渡され、そしてシドニーオリンピック女子マラソンの金メダリスト高橋尚子さんに受け継がれた。高橋さんは岐阜市出身なのだった。そして高橋さんがゆっくりとした足どりで会場とコミュニケーションを取りながら進み、次の、ややくたびれたかっこうの中高年男性に炬火をリレーした。
ちょっと照れくさそうにそれを受け取ったのは、47年後の古田肇選手だった。
そう、その古田肇選手こそ、現岐阜県知事古田肇氏だったのだ。

そもそも、これまで歴代の全国の都道府県知事の中で国体の開会式で炬火リレーの最終ランナーを務めたことのある人が古田さんのほかにいるかどうか、知らない。いないのではないか。それだけでも珍しいのに、「自分が現職の知事の時代にその開催地になる」という確率は、ほぼゼロに等しい。
その奇跡のようなめぐりあわせが、今回の「ぎふ清流国体」だった。

47年前の映像ではたくましくかつスマートな体形だった古田さんだが、歳月の重みか、職務の重みか、かなりふっくらとされている。高橋さんから炬火を受け取ると、古田さんは一歩一歩惜しむように走り、最終ランナーの中京高校3年安藤圭祐選手に炬火を渡された。安藤選手は、受けとった瞬間からスイッチの入ったように軽やかにはずむように走りはじめ、68段ある炬火台の階段を飛ぶように登り切った。この若さの持つ「勢い」を、多くの観客が感じたのではないか。
「ロンドンから岐阜へ、そして岐阜から未来へ」という言葉が、そのとおり感じられた炬火リレーだった。

と、ここまではいい話で、これからはおまけ。この仕事に就いてからは初めて岐阜市に行って、佐賀市と岐阜市は似てると感じたことだ。

たとえば大都市からの距離。岐阜から1番近い大都市といえばと名古屋市だが岐阜駅―名古屋駅は快速で20分。鉄道で30キロしかない。佐賀市と福岡市は鉄道で50キロちょっと。特急で40分。まあ、近いほうだといえるだろう。
民放テレビ局の数もそう。岐阜県内には民放はテレビ東京系列の「ぎふチャン」だけでほかは愛知県のテレビを観ているのだが、それは佐賀県内の民放はSTSだけでほかは福岡県の民放を観ているというのと似ている。
さらに、ここまで似ているのか、と驚きだったのだが東西南北でものをいう文化。佐賀市では店やビルを表現するのにたとえば「みずほ銀行の東隣りの店」などと表現する。海が南で山が北、というのが明確なのでそれでもわかりやすい。これは佐賀オリジナルの表現だと思っていたら、岐阜市でもそうだった。「柳ヶ瀬ってどこですか?」「駅の北から東西にのびとる道です」とか、「どっか駅の近くで居酒屋さんみたいなところはありませんか?」「駅の北側にホテルコンフォートいうのがあってその北側に屋台街があります。」
みたいな感じだ。

ところで僕らは開会式の次の日、応援のために岐阜市内のいくつかの競技会場を回ることにした。テニス競技を応援して、その後、次の山岳競技まで時間があったので先に昼食を済ませようと、前々から行ってみたかった中華料理の店に行くことにした。行先はナビでだいたいわかるが、店に駐車場があるのかなと思って食べログで見てみたら、駐車場のところにはこう書いてあった。
「駐車場 無 (店の南のほうにコインパーキングなど多数あり)」 
う〜ん、「南のほう」ですか・・・。

さらには続きがある。大変おいしく料理をいただき、また来たいね、という話をしながら、店の「南のほう」にあったコインパーキングから車を出して細い道に入ろうとしたところ、そこにあった看板には「東進禁止」の文字が。
まさか大手進学予備校の進出阻止の看板のわけがなく、これはあきらかにドライバー向けであることは間違いないのだろうが、果たして入っていいのか悪いのか。
悩ましくなって、結局その道を避けてほかの道を選択した。

岐阜おそるべし。好きだな。奥が深い。


ふるかわ 拝

平成24年10月2日(火)
第480号「10月6日は映画『サニー』を観よう」

いよいよ10月6日(土曜日)から佐賀市内にある映画館「シアター シエマ」で『サニー 永遠の仲間たち』の上映がスタートする。
この映画は韓国映画。といっても、イケメンなし、撃ち合いなし、で7人の女性たちが主人公。だからといって恋バナ系でもないけど、観て、「いいな」と思える作品だ。
この映画のタイトル『サニー』は60年代にヒットしたボビー・ヘブのナンバー。「サニー〜」で始まるメロディはとても印象的で、僕自身は当時エレクトーンを習っていた妹が弾いていたのを聴いてはじめて知った。

全羅南道(だと思う)からソウルに引っ越してきた高校生ナミ。慣れない言葉や学校生活に戸惑いながらも新しい学校の仲良しグループに入れてもらう。そのグループの名前は「サニー」。
その後、ふとしたことからグループは離れ離れに。そして25年後に再会しようとして・・・という内容。

これが現代の韓国テレビドラマなら、取り違え話だの豪邸に住む御曹司だのが出てきそうだが、そうではない。「仲間たちのその後」をたずねていくことで、「昔はよかった」という気持ちになるだけではなく、「いかに今がかけがえのないものか」ということを感じさせてくれる。この映画を観ていると、年を取るって悪くないな、と思う。若いときは若いときで説明不要の良さがあるけど、歳月を重ねていくというのもまた悪くない、という気持ちになる。僕自身は男性だからこの主人公たちの思いや感じとは違うところがあるかもしれないが、それ以上に「同じ気持ちになれた」という気がした。

『アメリカン・グラフィティ』という映画がある。これはアメリカの高校生たちの、元気だけが溢れていてどうしようもない、そのどうしようもなさが前面に出ている青春映画だが、『サニー』は『コリアン・グラフィティ』とも呼べる映画なのではないか。
『アメリカン・グラフィティ』は41曲もの60年代前半のアメリカのヒット曲がちりばめられているが、『サニー』も、やはり70年代から80年代にかけてのアメリカの大ヒット曲で彩られている(映画の中で使われている曲『サニー』も66年に発売されたオリジナルではなく、70年代にカバーされたボニー・Mのバージョン)。洋楽って、どこの国でも共通の財産になっていると思う。

この映画、韓国では昨年爆発的にヒットしたが、今年の5月、東京で公開されたときには観客動員が伸びずにいた。それが、観た人が口ぐちにこの映画の良さを伝えはじめ、東京でも大ヒットとなった。
SNSによってヒットした映画だと言ってもいいかもしれない。映画会社がたくさんのお金をつぎこんで宣伝をしたわけではないが、それでもいい映画はきちんと観客がついてくる、ということなのだと思う。

僕は数か月前、東京でこの映画を観て感激した。そしたら、今度、佐賀のシエマで上映されるという。
この映画をぜひひとりでも多くの人に観てほしい。その盛り上がりのために、公開初日、できる限りたくさんの観客たちで劇場を埋め尽くしたいと思う。
10月6日。第1回の上映は13:10、第2回は17:40だ。土曜日なので、平日はなかなか映画館に行けない方とかも大丈夫だと思う。ちなみに、その日のサガン鳥栖の試合はアウェイで13:00から。
第2回の上映が終わった後は有志による大交流会が予定されているので、そこで熱く語り合いたい。

難しいことは何もない作品。一緒に楽しみましょう。


ふるかわ 拝