2003年6月

平成15年6月24日(火)
臨時増刊号「第一日目終了!お礼です」

今日は、一般質問の初日でした。傍聴席には、けっこう多くの方が来ておられ、僕の支持者の方も何人も来ていただいていて、とてもうれしかったです。午前中の分が終わった後、何人かの記者さんから、傍聴席多かったですね、といわれ、とてもうれしいです、とお答えしました。

議会をはじめて傍聴された方々は、びっくりされたかもしれません。何十分か議員の方が演説され、それに対して、今度は僕や各部局長がずっと答弁するという形なので。そういう形で、なかなか傍聴席で聞いているだけではわかりにくい部分もひょっとしたらあるかもしれませんが、いずれにしても、ぜひまたお越しください。

今日、いちばん反応があったのは、はなわさんに感謝状を送るべしという質問でしたが、それに対しては、感謝状というのもあるが、もっと自由な感じとして「佐賀・吉野ヶ里大使」というのがあるので、それを含めて、議会や県民の方の声を聞きながら検討していきたい、と答えました。

吉野ヶ里(ちなみにワープロで「よしのがり」と入力するとちゃんと変換してくれるんだなあ。)大使というのは、佐賀県となんらかの形でゆかりをもってもらっている人に出しているもので、こないだ橋幸夫さんにも出したりしています。

さっそく、県のHPや僕個人のHPに対しても、賛否のメールが続々きています。
みなさんもご意見を聞かせてください。

ふるかわ 拝

平成15年6月24日(火)
第006号「はじめての県議会」


18日から6月議会が始まった。僕にとって、実質的に初めての議会だ。

今の気持ちをひとことでいえばドキドキの4文字につきる。

火曜日から木曜日までの3日間、一般質問という形で、僕の県政への取り組みが質(ただ)される。
それに、きちんと答えなければならない。

これまでも、いろんな形で話をしてきた。マスコミのインタビューも、個人演説会も、対話集会でも、県庁の来賓室でも。

ただ、僕が知事をしている地方自治法という根拠法に規定されている法定手続きとしては基本的には議会が唯一のもので、それだけに議会における答弁、発言というのは際だった重みがある。だから、いつも以上に言い間違いや軽々しい発言はできない。

去る18日の開会日に僕が行った平成15年6月定例県議会知事提案事項説明(これを県庁では「演告」と呼びます)についても、本当に一字一句、なんども事務方と議論した。
あの演告を作るときには、まず、言いたいことをパラフレーズごとにまず自分でしゃべり、それを録音することから始めた。そして、それをテープ起こししたあと、それを見ながら、採用できる表現、適切な言い回しを選んだ。して、パラフレーズを入れかえたり、同じ表現が続くときにはそれを言い換えるとか、カタカナは極力使わないようにして、日本語を書いたあとにカタカナをかっこ書きするとか、そういうこともやった。

県民の みなさま なのか、皆様なのか、みなさん なのか 皆さん なのか。たとえばそういうこと一つから始まって、選挙のお礼を言っておくべきかどうか、とか、自分の政治姿勢をどこまで表現するか、とかとにかく変更に次ぐ変更だった。

いよいよ間に合わなくなって、出張中の東京のホテルの部屋で男3人、顔をつきあわせて議論をし、だいたいの組み立てができたのは開会のわずか3日前ではなかったか。

さあ、今週の火曜日から、ということは本日からあさって木曜日までは一般質問。県政全般について、さまざまな論戦が繰り広げられる。

手続きはとてもカンタン。県議会に傍聴に来て、どういう議論が行われているのか、肌で感じてはいかがだろう。

ふるかわ 拝

平成15年6月17日(火)
第005号「期待はずれの逆って何ていったっけ」

6月15日、知事とかたろうかい が塩田町で開かれた。議会前の最後のかたろうかいだ。
午後1時半のスタートの前に午前中は町内の視察をした。

わたされた日程にあったのは「志田焼の里 博物館」。

正直に言おう。

期待してなかった。名前と響きがどうも食指をそそらない。いかにも行政が作りましたふるさと創生系のハコモノで、関係者以外興味ないような地元モノが美しさを考えず並べ立てられているような、そんなものだろうと思っていた。それでもみないわけにはいかない、それがそこにあるのであれば。
ここに行くより、たとえば東長(あずまちょう)という知る人ぞ知る塩田の銘酒の酒蔵にでも行く方がいいのになあ。
そんな不埒なことも考えていた。

そういうわけにもいかず、その博物館の前に立った。どうも勝手が違う。

そう、博物館というよりは、昔の陶磁器の工場そのものなのだ。

説明を聞いて納得した。

そう、昔の工場をそのまま機械や窯も保存・復元した事業だったのだ。

天草から運んできた陶石を砕くところから始まって、その工程の一つ一つが道具ごと残されている。
窯もそのまま。炎が当たって、変色した窯の内部もそのままで、それはそれで美しい色になっている。

事業費は県と町が半々だった。合計1億円でなんとか保存できたという。

「ただ、資金が底をついて、工場の一部の建物は木造で復元できず、トタンにしました。あと、まだ復元できていない建物もいくつか残っているのです。」とのこと。確かに、終わった感じではないが、残った建物をみていると確かに崩壊寸前、他の建物も復元前はそんな感じだったという。

僕が行った日曜日には、佐賀市や佐世保市からここで開かれる陶芸教室に参加している人たちが何人かいた。
なんとぜいたくなことだろう。

この博物館は、屋根こそあれ、まさにエコミュージアムの発想だった。
生活や営みがそのままの姿で保存されている。

また、この博物館は産業遺産であるとも思った。

陶磁器産業は我が国が世界に冠たるものの一つである。そして我が国の中に、これだけ陶磁器を作る工程をそのまま残しているものはないだろう。少なくない数のこの手のものを視察と称して体験した僕が言うのだから、的はずれではないと思う。

ということはこの博物館は世界一のものといったっていい。

産業遺産として誇るべきもの、というのが僕の結論だった。

視察を終えて、案内された事務室にはやや控えめに「産業考古学学会による産業遺産の登録証」が飾ってあった。

もっと堂々としてていい。ただ、残念なことに、ひとりで行っても僕が体験したビビッドな説明が聞けないだろうと思う。


大きな窯の中だと当然火のあたり方が違う。そういう場合、どういう工夫をしたのか。温度計のない時代、どうやって温度管理をしたのか、職人たちの苦労話や秘訣をすべての人に語ってくれればもっとこの展示が生き生きとしてくるに違いない。

そういう思いをもって博物館を後にした。

だまされたと思ってという言葉があるけれど、塩田町はその言葉にぴったりの町だ。
由緒ある鰻屋(その名も「鰻屋」という。)もある。「うったち汁」ってわかるかな?それもある。
そのほか、長崎街道の宿場だった名残がちらりちらいと感じられるなかなかのすてきな町なのだ。

ぜひともだまされてみてほしい。

ふるかわ 拝 

平成15年6月10日(火)
第004号「沖縄にて」

九州地方知事会に出た。先週の木曜日のことだ。場所は石垣島。地図を広げてみると、石垣島は台湾の中部と同じ緯度。亜熱帯そのものである。
 
僕は昭和57年から59年まで約2年間、沖縄県庁職員として沖縄に住んでいた。
だから、石垣島に来た回数は10回を越えていると思う。

なぜ、沖縄だったのか。

話は昭和47年にさかのぼる。

昭和47年といえば僕は中学2年生だったのだが、その年の5月15日に沖縄が日本に返還された。その年の秋、吹奏楽コンクールの九州大会が復帰記念で那覇で開かれることになり、佐賀大学附属中学校ブラスバンド部員だった僕も、沖縄にはじめて渡ったのだ。

びっくりした。空の色や街の風景が違うのはもちろんだったが、ファンタの瓶の大きさが佐賀より大きいのまでおどろいた。そして強烈なあこがれにも似た思いを抱いた。

その年の冬、NHKの銀河テレビ小説で「うりずんの詩」という作品が放送された。
内容はまったく覚えていないけれど、沖縄のことを描いた作品だった。そしてさらに、同じNHKの銀河テレビ小説で約2年後、僕が高校に合格し中学3年最後の月だった昭和49年の3月に「風の御主前(うしゅまい)」と言う作品が放送された。石垣島の測候所で気象観測に生涯をかけた岩崎卓爾とその妻の物語で沖縄を代表する作家大
城立裕の原作を山田太一が脚本化したもので、「藍より青く」でデビューした真木洋子と高橋幸治が夫婦を演じた。
この作品に描かれた沖縄にも心惹かれ、いつか沖縄に、という思いが募っていたのだった。

その後も、高校の頃、海洋博が沖縄で開かれ、それを見たいと思いつつも、叶わず、せめて奄美まで、と出かけそこの書店で「青い海」という琉球文化の雑誌を買って帰ったこともあった。

自治省に入ることになった年の冬、ということは学生時代最後の冬、僕はシベリア鉄道に乗って、ユーラシア大陸を横断し、ヨーロッパを旅した。
そのとき、ハンブルグで慶応のボート部の先輩にお世話になった。その方は恒遠さんという方で、パイロット万年筆のヨーロッパ支社長だった。
その方とはその1年前にも、僕が東大ボート部のマネージャーとしてヨーロッパ遠征に行ったときにもお世話になっていて、その関係に甘えて、お世話になったというわけだった。

そのハンブルグのご自宅で、「今度自治省に入ることになりました、ついてはどっかの県にゆくことになります。
人事当局からなるべくこれまで自分の育ったところから遠いところにせよといわれ、今は秋田県という希望を出していますが、沖縄にもちょっと興味があるんですよ。」と申し上げた。

すると恒遠さんは「それは君、沖縄にしたまえ。僕も復帰前に沖縄でボールペンや万年筆を売っていたことがある。いいところだ。」と言われた。

やはりそうか、と僕はその翌日、ハンブルグから自治省あてに手紙を書いた。「ぜひ沖縄に行かせてほしい。」。

その希望が結果的に叶えられ、栄えある自治省第一号の沖縄赴任が決まったのだった。

沖縄の2年間、僕は自治そのものを学んだ。なぜ、日本なのか、という問いが成立する地域だった。
霞ヶ関で考えることと実際がいろいろ違うというこを身をもって体験した期間でもあった。その後の僕のものの考え方の基礎になるものを沖縄で学ぶことができたと思う。

恒遠さんは、僕の沖縄滞在中、ドイツからの一時帰国の際、わざわざ南周りで沖縄に寄っていただいた。
「僕にも責任があるからなあ。でも、きっと沖縄に行っていてよかった、と思うときが来る。」 そう言って励ましていただいた。

10年前に恒遠さんと偶然再会した。恒藤さんは日本に戻り、本社の専務になっておられた。再会の記念に、と蒔絵のついたすてきな万年筆をくれた。

その万年筆を僕は使い始めた。今年に入り、少し調子が悪くなったが、修理屋さんに直してもらい、使いつづけた。
そんなある日、新聞に恒遠さんのことが載った。恒遠さんはパイロット万年筆の社長になっておられた。
そして亡くなられた。その訃報だった。

いわば形見ともいえるその万年筆は今も僕の手元にある。下手だけれど、自分の字でハガキを書くときに、いちばん使っている万年筆だ。

今回、支持者の方から新しく万年筆を頂いた。
新しい県政を新しい万年筆とともにつづってほしい、と添えられていた。

ちょっと迷ったけれど、僕はその万年筆を使いはじめようと思っている。

そしてこれまで使ってきた蒔絵の万年筆には少し休んでもらう。 何事にも休みが必要だから。

ふるかわ 拝

平成15年6月3日(火)
第003号「スキー場とハウンドドッグとラベンダーと」

このあいだの日曜日、天山スキー場にでかけた。といっても、もちろん春スキーではない。
古湯の森音楽祭というイベントの中のハウンドドッグのコンサートがお目当てだった。県職員である知人が、このイベントに関わっていて、ぜひきてくれといわれていたからだった。
ハウンドドッグといえば、ff(フォルテシシモ)という誰でも知っている曲を別にすると、なかなかなじみがない。
僕自身は、ずっとサザンオールスターズの応援団に入っていて、コンサートのおっかけをしていたけれど、ハウンド ドッグは初めてだった。

着いたのは開演5分前。大友さんにご挨拶し、その脇をふとみたら、南こうせつさんがいた。
よく考えたらその日のコンサートは「ハウンドドッグwith南こうせつ」だった。
南さんはさすがに大分にいるだけあって、「古川です」と挨拶したら、「大分も 知事さん代わりましたんでよろしく」という答え。なんとなく、雰囲気わかるでしょ。

コンサート自身は、楽しかった。長くこの業界にいる人独特の内輪ネタもあるし、MCもそこそこおもしろい。
おかしかったのは、どうみても妙な取り合わせとしか思えないこの両人のコンサートで、どうやら陣取り合戦があっていたような雰囲気だったことだった。
レフトウイングとライトウイングに分かれて、「こうせつ派」と「ハウンド派」が対峙しているみたいな感じ。
詳しい事情は聞いてはいけなさそうだったけれど、あれはなんかあったな。

さて、会場は天山スキー場。ここの社長が、地元のためならと今回、無料で場所を提供してくれていた。
ここの社長さんはスキー界ではちょっとした人。しかも、「古川さん、スキー場のレストランはカレーが勝負。
だから、うちのカレーはちょっといい よ。」ということをのたまう経営感覚に富む人でもある。

その社長さんからおみやげもらったのが一本のラベンダーだった。

「古川さん、向こうの方をごらんなさい。あそこに車が走っているでしょ。あの一帯 に2,000株、今ラベンダーを植えてるんだけど、来年はそれを20,000本にするからね。うちはスキー場だから、観光バスの駐車場はたくさんある。だから、どれだけお客さんが来ても大丈夫。そして、ラベンダー園は、無料にして、みんなに見ても らうから。こっちはグッズとレストランでお金が取れればいい。もうすぐ道路ができるしね。」
社長の話はいつ聞いても楽しい。
一本のラベンダーを手に僕はコンサート会場を後にした。
次の日程があって、アンコールまでは聞けなかった。

大友さん、「涙のバースデイ」やってくれたかなあ。

僕はそのラベンダーを公舎の庭に植えた。
このラベンダーが来年の花咲く季節をきちんと迎えることができれば、そのときには天山の山麓にも2万本のラベンダーが咲き乱れていることだろう。

ふるかわ 拝