2003年7月

平成15年7月29日(火)改訂 平成16年8月30日
第011号「上着を着ないということ」

やっと梅雨が明けた。昔の(どれくらい昔かというと、僕が小学生か中学生だったころの)イメージでいえば夏休みに入ると連日青い空が広がっていたような気がする。
ところが、今年もやっとおととい。しかも明けたとみられるなんて言い方だ。昔は断定してたのに。
みられる なら誰だっていえる。昨夜阪神は勝ったとみられる、でもいいじゃないか。とにかく気がついたら夏でした、というのはいささか気に入らないね。

その昔、(どれくらい昔かというと、アメダスとかがなかったころ)天気予報はあまり当たらなかった。
まだドームじゃなく後楽園球場だったころの梅雨のある日のこと、なんとか試合はできそうな天気との予報に反して雨が降って、試合が流れたことがあった。試合があるものと予報を信じて、弁当を準備しておいた会社は損をした。こういうことがなんどかあったものだから、たまりかねた弁当会社の社員が、気象台にその余った弁当をどうせあまったのだからと届けた。
「せっかくですが、時期も時期。当たったりすると大変ですから。」と気象台の職員が答えたものだから、いけなかった。弁当会社の人いわく、「大丈夫、あんたたちはどうやっても当たらないよ。」

今日はそういう話じゃない。

夏は暑い。しかも、むしむしする。それなのに、この温帯モンスーン地域のわが国では、夏の正装はスーツになっている。そしてホテルも公共の場所もそういうかたがたかお見えのところはスーツにあった冷房を入れてしまっている。県庁はISOもあるし、地球温暖化への対応もあって、庁舎内の温度は28度にしている。正直言って、この温度をまじめに守ったうえでスーツを着ているととても暑い。

そこで考えたのが、夏の間の上着とネクタイの廃止だった。本当のことをいえば、お歴々が居並ぶ中、自分だけ半そでというはつらいこともある。だが、これは省エネのショーケースだと思うようにしている。
本当は上着とネクタイの廃止、じゃなくて夏に合ったスタイルにしましょう、と呼びかけるべきだった。来年はそうしたいと思っている。

その一方で今年できることは何か。自分なりに考えた結果がサファリスーツだった。
これなら夏のスタイルとして、ある程度の場に着ていけるのではないか。僕は10年前、カンボジアにいた。
そしてそこでサファリスーツを作った。
ブルーとベージュの2着。これを着て、当時のUNTACの 明石 康 代表にも会った。だから、それくらいのことまでは大丈夫のはずだ。

そのサファリはプノンペンのいわば銀座通りのようなアチャーミン通り(いまは昔のようにモニヴォン通りという名前に戻ったかも)というところにあった。ムンディアルテイラーというしゃれたネーミングの割には、入ってみると、(といっても扉があるわけでもなく、敷地に入ったということだが)、ランニング一枚のおじさんが汗をふきふき服を作っていた。
お互いに意思の疎通を相当欠きながらもそのサファリはできあがり、その後世界各地にでかけるときの役に立った。
いいサファリだ。あの職人さんの腕は確かなものだった。
ランニングなどで判断してはいけなかったとちょっと反省した。
残念なのは、役に立ちすぎて、いまから7年前、モスクワ発ストックホルム行きのアエロフロート機の中に預けっぱなしにしてしまったということだ。

なくしたブルーのサファリをもういちど復活させたくて、今年佐賀市内の仕立て屋さんにお願いしてブルーのサファリを作ることにした。いろいろうわさも聞いて、ここなら、というお店を教えてもらい、
こないだ出かけてみた。なるほど、腕は確かそうだ。この職人さんもまた、ランニング一枚だった。

もうすぐこのサファリは出来上がる。これを着て、8月1日 日本経済新聞社主催の電子県庁のシンポジウムにパネリストで登場する。いつか載るだろう(と思っているのだけれど)紙面に、どうかご注目あれ。

ふるかわ 拝

平成15年7月22日(火)
第010号  Date: Mon, 21 Jul 2003 23:27:54 +0900 (JST)
To :Masato Nakashima

Subject:TOSU 0-1 NIIGATA

「中島さん、土曜日の新潟との試合は本当に残念でした。あれだけのチャンスに恵まれながらというか、チャンスを得ていながら、ゴールできず、改めてサッカーの深さを実感しました。

実はあの日、鳥栖まで50分あれば大丈夫と言われ、自宅を18:00に出たものの、鳥栖駅近くで、お祭りがあっていて、道が通行止め。迂回しているうちに19:00を回ってしまっていたのです。
スタンドに駆け上がったときにはすでに0-1でした。
最後の最後までせめてドローの夢を持ちつつ観戦を続けましたが、残念でした。

ハーフタイムのとき、約束どおりご挨拶をさせていただきました。鳥栖スタジアムというサガンのホームでサポータの方たちに最大限の応援メッセージを送りたいと思って語りました。
言葉がすぎたようでもあり、また、いささかサガンへの思いが強すぎて、新潟のサポータへの敬意を表することを忘れてしまいました。
あのときいただいたサッカーボールは、知事室に飾りました。「いつも心にサガン鳥栖」のステッカーの上に。

そのときもお話したように、先日行った立命館大学での全国知事リレー講座という名前の各県知事の講義の時、僕は事前に学生に「佐賀県といえば何?」というテーマでアンケートしました。
今日的な課題という意味での質問だったのですが、大きく3つの答えが寄せられました。
一つは佐賀空港、もう一つははなわさんのこと、そしてもう一つがサガン鳥栖のことでした。

大学生というだいたい20歳前後の青年たちが地域をイメージする際に、いかにサッカーの存在が大きいのか、びっくりするとともにうれしくなりました。
同時に、だとすれば佐賀県を代表するクラブであるサガン鳥栖がその名にふさわしいクラブとなるよう、一人の県民として応援していかなければいけないなということも感じ入りました。

今年J1入りした同じ九州の大分トリニータを陰で支えていた人間のひとりに私の自治省の後輩がいます。
大分県に出向して、9年、ひたすらトリニータのためにかけずりまわっていました。
「最初のうちはトリニータのグラウンドがなく、草野球のグラウンドで練習していたら、ときどき野球の球が飛んでくるんですよ。野球の球を気にせずに練習がしたい、それがスタートの頃の悩みでした」と彼は笑います。

わがサガンにもどこにも負けないサポータの人たちがいることを、19日の鳥栖スタジアムで確認しました。
そのサポータの力をこれから地域の輪にしていきましょう。
たとえば、月に1回、サガンの選手はタダ、という中華料理店、サガンの選手なら散髪代はいらないという理容店サガンの選手ならお肉は2割引きという精肉店。
そういうものが少しづつでも広がっていけばいいなと思っています。

いずれまたスタジアムに伺います。そのときにまたお目にかかりましょう。」

ふるかわ 拝

平成15年7月15日(火)
第009号「アバンセ・某所 人に知らせてはならぬ苦労」

先週の土曜日、アバンセに行った。消費生活センターや女性センターを見せてもらった。
どういう相談がきていて、どういう対応がされているか知りたかった。土曜日だったが、僕が話を聞いている間も、ずいぶん電話がかかってきていた。
「お金が返せなくなったという相談がとても多いです。」と消費生活センターのベテランの相談員が言う。
ここの話については、整理がついたら、また書くことにしたい。
守秘義務との関係もあり、どこまで書けるのか、慎重にしないといけないからだ。

女性センターの相談の内容はいろいろあるけれど、DVが1割程度あるという。ドメスティック・バイオレンスと言うと、何か都会のできごとのようにも思うけれど、この佐賀の地にも確かにあるようだ。
いままでは、自分のがまんが足りないと思っていたのが実はDVだった、というケースも多い。
困ったとき、真っ先に相談をするのはたいていの場合、知人・友人。だから話を聞く知人・友人に対しても、DVのことについてある程度は知っておいてもらうということが必要になる。

そういう暴力的な夫から逃げていたり、または逃げようとしている女性たちは、必死の思いで電話し、場合によっては助けを求めてアバンセを訪れる。

夫から逃げている以上、居場所を突き止められたら困る。だから、そういう相談はもちろんひっそりと行われる。その様子をここに書くのもはばかられるほど、相談する人の人権と、情報管理と、加害者からの保護ということに関係者は一所懸命だ。

家に帰れない、という女性もいる。そういうときのために、婦人相談所があって、一時的に預かることもできるのだが、満杯のことも多く、なかなかそういう対応もできないのだという。
すでに起こっている現実をいかにいい方に導くか、相談員をはじめとした関係者は必死になって努力している。
保健所や警察のように強い権限があるわけでもない。ひたすらにまず話を聞き、そして限られた手段の中でどういう解決方法があるのか、模索しているのである。

たとえば、どっかのビジネスホテルと契約して、そういう方のために、名前を聞かずに泊めてもらうようなシステムというのはどうだろう。
ひょっとしたら旅館業法では、宿泊者は必ず名前を書いてもらうことになっているかもしれない。
でもそれをすると加害者が探し当ててしまう可能性だってある。とすれば、法律改正が必要になるということもありうる。ただ、そうは言ってもホテルには泊まっている人を保護する、という力まではないかもしれない。
必要なのはハードだけではない。守ってくれる人たちやそういう仕組みもまた必要になる。やはりホテルは一夜の隠れ家にとどめておくべきかもしれない。

アバンセや婦人相談所が女性の駆け込み寺になっている、と書こうとしてふと思った。お寺はどうなのだろう。
お寺の中には保育所を経営しておられるところもある。福祉事業には理解があるところもあるかもしれない。
もともとお寺というのはそういう方のための避難所でもあったのではないか。

国は現実を後追いするかのように、法律や運用を変えてくる。しかし、実際には、現実の声は、国からではなく、現場にたくさんうずもれている。自分自身がもっと事実を知らなければならない。

そういう想いを持ちつつセンターを後にした。センターを去る時にも、また、電話が鳴っていた。

ふるかわ 拝

平成15年7月9日(水)
臨時増刊号「主として立命館大学の諸君へ」

いま、講義を終えて佐賀に帰るのぞみ19号の8号車3Aの席にいます。今日の講義、いかがだったでしょうか?
このための準備は相当なものがありました。組み立てもずいぶん当初案とは変わりました。最初は佐賀牛とか佐賀県のこれからの姿とかそういうものが中心だったのです。
ただ、どうもぴんと来ませんでした。
僕にできることは何か、僕にしかできないことは何か。また、みんなが期待していることは何か。
まず選挙、これがぴんときました。激しい選挙戦を勝ち抜いてきたばかりの知事の話というのはこれまでにはありませんでした。よし決まり、まず一個。

あとが続きません。そこで思いついたのがわからないことは現場に聞け。

お客様である学生が何を望んでいるかということでした。そこで大学に協力していただいて、アンケートを実施しました。あなたは何を期待しますか?

予想をはるかに超える多くの、そして内容の濃い回答が寄せられました。キーワードがたくさん出てきました。
マニフェスト、海外経験、各地の経験、サガン鳥栖、佐賀空港、そしてなんといっても、はなわ。
よし、これだ。マニフェストをこれに併せて印刷し、(こちらは政務になるので、後援会で印刷しました。)マニフェストの内容を具体化し実施工程表まで作った「重点実施項目」も新しくまとめ、これを見せよう。そしてマニフェストの実際のものを見てもらおう。
さらには佐賀空港がむだではないか、ということだとか、サガン鳥栖をこれからどうするかとか、そして最後にはなわ だな。
こうして資料の準備は進みました。実は、マニフェストという言葉を知っていますか?という電話アンケートまでやっていたのです。
そして始まってしまえば、1時間半の時間はあっという間でした。

いま終えてみて、ほっとした満足感と併せてあれも言えばよかった、これも言えばよかった という残念な思いもかなりあります。

できれば補講をしたいと思っているくらいです。水口先生にはぜひ補講をさせてくれとお願いしました。
終わった後何人かの学生が来てくれて、質問をしたり、いろいろ話しかけてくれました。本当にありがとう。

そろそろ博多です。学生諸君、また会いましょう。

ふるかわ 拝

平成15年7月8日(火)
第008号「my first movie in saga」

土曜日の夜、セントラルに映画を観にいった。
その夜は熊本で在熊佐賀県人会で、それが終わったのが、21:30。その日はそんなにアルコールが入らず、元気だった。よし、映画だ。僕は1月25日に佐賀に帰ってきて以来、一本も映画を観ていなかった。余裕がなかったといえばそれまでだが、映画はいったん劇場に足を運ぶようになると続けていくのだが、一度劇場から足が遠のくと縁遠くなってしまう。僕の場合も、なんどかそういう景気変動のような映画を観る時期と見ない時期という波があったが、ここしばらくは第何期かの沈滞期に入っていたのだった。観たのは「チャーリーズ・エンジェル」。僕はそもそも外国映画よりも日本映画の方が好きだし、外国映画でもアメリカ映画よりはアジア映画やヨーロッパの映画の方が好き。たとえばいまいちばん観たい映画は中国映画の「北京ヴァイオリン」といった具合である。そういう僕がハリウッド系のこの映画を観ること自体とても自分自身不思議ではあったのだが、周りの映画好きの友達が、かつてのなつかしさもあって、観にいったらけっこうおもしろかった、という声が多かったのだ。

23:30の回は1200円。いまどき2時間何かで遊ぶとしてこれよりも安い値段で上げられるものってなにかあるだろうか?物価の優等生としてよく卵が挙げられるが、映画だって娯楽界の優等生だろうと思う。
セントラルという映画館はスクリーンが3つの街中にある映画館。土曜日の夜だから、周りは高校生たちが座り込んでなにやら話している。

おっと、そうだ。友達と地べたに座って話すのは2時間遊んでもただでした。

チャーリーズ・エンジェルは23:40から始まった。観客は男1人 が 僕も含めて 3人、女性ペアが1組 という感じ。まあ、こんなものか。僕はかつて岡山のアート系の映画館の立ち上げのお手伝いをさせてもらっていたが、そのとき、ゴダール監督の作品を上映していて、平日のある回はゼロだったことがある。少ない状態というのはよく経験していたが、ゼロというのははじめてでなんか越えてはいけない一線だったような気がしたな。その映画館「シネマ・クレール」は今では館の数が二つになり、人口60万人の岡山という地方都市としてはめずらしく相当単館ロードショー系の映画を観ることができる街になっている。

それはさておき映画そのものはとっても楽しかった。まずキャメロン・ディアスがかわいい。そんなこと解説の必要ないではないか、というが、愛くるしいかわいさ、というかおちゃらけでもなんでもしてみてくれるというのはなかなかいない。日本では藤原紀香だろうが。それと服がすごくおしゃれですてき。かつてクルーレス という映画があったけど、あのときの服を思い出したりしていた、といっただんだんマニアックになるのが映画ファンのいけないところだな。出てる俳優が「アリー・my・ラブ」とか「フレンズ」とか、そういう安っぽいというといけないけれど、お手軽系のテレビ、映画に出ている人たちなので、なんかテレビを見ている感じもした。

いい映画かどうかというのを人に教えてもらってもたいていの場合意味がない。自分にとっていい映画かどうかわからないからだ。だいたい、いい映画という基準さえよくわからないではないか。僕の場合は、いい映画、というのは 映画が終わって、キャストとかスタッフの名前が流れ、最後にきちんと終わったとき、その瞬間に感じるじいいんと来るようなしびれるような感じがあればそれはいい映画ということにしている。

土曜日のチャーリーズ・エンジェルは それが来た。しかもエンドロールの一番最後にサービスシーンがあった。そんなにびっくりするようなものでもなかったけど。
最後の何かあるとちょっともうけた気になるのよね。

これから観ようという人注意されたし。

ということで議会も終わり、一区切りついたということの証としての映画だった。

議会が終わるまでやめていたものがいくつかある。
ひとつが映画。もうひとつが休み、さらにもうひとつは講演だった。
映画を観たのでまずはひとつが解禁になった。講演・講義も今週から解禁。さっそく今週の火曜日立命館大学における全国知事リレー講義が一番手。これは読売新聞と立命館大学が組んで全国すべての知事に学生相手に講義してもらうという試みで今回が佐賀県の番。その日の様子は、後日読売新聞大阪本社のHP上でも公開され、読売新聞にも載る予定、ということで週末はこの準備に追われていたところ。なんだかどきどき。

ふるかわ 拝

平成15年7月1日(火)
第007号「昇開橋に想う」

諸富に行った。昇開橋に行った。昇開橋をご存じだろうか?

筑後川にかかっている橋でもともとは国鉄佐賀線の鉄道橋。かつては筑後川を利用した水運が盛んで、船がたくさん行き来していたため、この橋を通るときには橋の一部がつり上げられるという一種のはね橋(東京のかちどき橋のようなもの、実際はちょっと違うけれど)のようなもの。

国鉄佐賀線が廃止されたとき、この橋も壊されそうになったのを地元の熱意と国の理解で保存したもの。
いまでは橋の部分は遊歩道になっていて、ときどき可動部という中央の部分を上げ下げしているのだ。

列車が来るとき以外は橋を上げる、列車が来れば下におろす。そういう当たり前の上下運動だが、では、船が向かってくるのと列車が鉄橋にさしかかるのとが同時になったらどっちが停止すべきか?

正解は「列車が停止する」。
理由はわからないが、おそらくは船は急には止まれないからではないか。川の中というのは簡単には止まれない。しかも狭い橋桁をくぐり抜けるためにはある程度のスピードがないと通り抜けられないだろう。

列車を止めるというのは当時の国鉄の中でもほとんど例をみないのではないか?

もともとは船が通っていたところに鉄道が割り込んできたものだからこういうところにも船優先の思想が見え隠れしている。

当時は橋の中に泊まり込みで上げ下げを担当する職員がいたという。夜も含めてずっと小屋にいたという。

トイレはどうしてたのかというと、小屋の中にトイレがあった。といってももちろん水洗なわけはなく、垂れ流しというか垂れ落としである。ただ、穴の開いただけのトイレから時折、下に向けて落とし物があったという。
風に流されれば下ばかりでなく、斜めになり、時にはさまざまなこともあっただろう。
そういう人くささを持った小屋はさすがに取り壊され、いまは別の小屋が建っている。その小屋の中にはトイレはない。夜中にいる必要がなくなったからだ。いまは必要があれば橋のたもとのトイレを使っているとのこと。

古いトイレも産業遺産だったねえ。

昭和10年5月に3年の工事期間を要したこの鉄橋は完成した。しかし、時代は次第に列車による運送から自動車による運送に変わってゆき、本来期待された力は発揮できず、ついに佐賀線は廃止された。
昭和62年3月27日だった。あと5日待てばJRだったが、そういう国鉄そのものとも運命をともにせず、52年の歴史に、ある意味潔い終止符を打った。

遅すぎた完成、は戦艦大和や青函トンネルと同じく、悲壮感が漂う。
近くはハウステンボスも、そしてエスプラッツもそうだったかもしれない。一度もいい目に会うことなく、ただ大変な時代しか経験しなかったものに、もう少し全盛期を経験させたかったという思いが馳せる。

帰ろうとしたら、ぴいいと大きな音がした。時間外なのになんだろうと言っていたら、下流に船が見えた。
橋の方に近づいてくる。と思ったら、橋が上がり始めた。「味の素の工場に荷物を運んでるんですよ。」

たしかにこの橋の上流すぐのところには味の素九州事業所がある。アミノ酸関係の製品を作っているところで、僕がときどき飲んでいるアミノバイタルもここで作られている。

そうか、役に立っているのか。とてもうれしくなった。

この筑後川昇開橋、今年の5月18日に東京駅丸の内本館などと並んで国の重要文化財に指定された。

昇開橋にも久々にフォローの風が吹き始めている。

ふるかわ 拝