2003年9月

平成15年9月30日(火)
第019号「知事の体重」

こないだ、SMAP×SMAPというテレビ番組に長野県の田中知事が出て、長野県の特産品の紹介をした。
そして、その中で田中知事が「ダイエットしないといけない。体重を10キロ落とす。」と宣言した。題して、「脱・デブ宣言」。このあたりといい、「どこでも知事室」といい、「車座集会」といい、「おまかせコンシェルジェ」といい、(表現道場はどうかと思うけど)、ネーミングのセンスはたいしたものだとあらためて感心した。

感心を超えてびっくりしたのは、翌日の長野県のHPだった。
ここの「長野県知事の田中康夫と申します。」というところをクリックするとなんと田中知事の体重が出てきて、「ただいま 減量中!!今の体重 81.7kg。
スマップの皆さんと約束し、10kgの減量(目標体重72kg)に取り組んでいます。」と書かれている。
(現在はその記事はもうないようです。webmas)

スマップってカタカナで表記していいのかなと思うけど、体重付きHPというのは県のHPとしては珍しい部類に入るにちがいない。

僕の体重は、選挙に出る前はだいたい81kgだった。1月24日に長崎県を辞めることにして、最初に買ったのが写真撮影用のスーツだった。
「若さを強調する必要がありますから。」とコーディネートスタッフにJプレスという洋服屋につれていかれた。センスのいいスーツは多かったが、僕にぴったりのスーツはなく、そこの中にある「いちばん僕の体形に近いスーツ」から選ぶことになった。試着したけど、ファスナーが上までしまらないくらいきつい。
でも、選挙的にいい、というのはこれしかなかった。

買おうかどうしようか、正直迷った。
「決定版 金魚の飼い方」という本を探しに行ったのに「最新版 やさしい金魚の飼い方」という本しか見つからず、悩んでいるような気持ちだった。

最終的にそのスーツを僕が買おうと決心したのはスタッフの一言だった。
「大丈夫、やがて着られるようになりますよ。選挙すると必ずやせますから。」

かくして僕はファスナーが中途半端なまま、200枚以上に及ぶ写真を撮り、そのベスト(のはず)の数枚がポスターやリーフレットに採用された。
(そのうちの1枚はいまなお県のHPに使われている。)

そうして確かに、選挙が終わるころ、ファスナーも上まであがるようになり、気がつけば体重は75kg、選挙前と比べて6kg減っていた。

夏が終わり、またスーツの季節がやってきた。ほんの2ヶ月前には楽に着ることができたあのスーツに久々に袖を通してみた。

うーむ。・・・

久々に体重を計った。78kgだった。

選挙は終わったばかりだしなあ。


ふるかわ 拝

平成15年9月23日(火)
第018号「世界職人会議に出て知ったこと」  

世界職人会議の設立総会が小樽であった。知り合いがこれをやってて、設立総会にぜひ来てくれという。
その前の日は長野だし、翌日は議会だ。残念だけどと断った。
ところが彼はひるまなかった。「長野のどこ?だったらこの列車で東京に行けば千歳行きに乗れるし、空港までは迎えに来るし、帰りは送るし、それだったら午後11時くらいには佐賀に着くから。」

かくして、僕はその熱意に負けて小樽の人となったのだった。

世界職人会議。いい名前でしょ?

名前だけじゃなくて、内容もよかった。要するに手仕事を大事にしようということだ。
道内外各地からいろんな職人が来ていた。ちょうど箸がほしいと思っていたので津軽塗りの箸を作っている職人と話をした。値段の高い箸と安い箸、どう違うのかが知りたかった。

高い方のは技術的にむずかしいらしい。むずかしい分、箸としての使い心地はいいのですか?と聞いたら、「それは同じですねえ、箸だから。ただ、そのむずかしさを共有してもらえるかどうかだなあ。」と彼は語った。
そう聞いたら「共有」したくなるではないか。
そのご自慢の箸は、1000マイルの旅をして、今、僕の手元にある。

そうそう、職人と名の付くところにはこの人がいないといけない。もちろん、永六輔さんもいらしてた。

変わったところではマイクロソフトの副社長。職人会議なのにおもしろいでしょ?

マイクロソフトの責任者に会ったら一度聞こうと思っていたことがある。
「実はマッキントッシュのファンではないですか」ということでもなければ「ビル・ゲイツの自宅の庭は日本庭園だって本当ですか」ということでもない。

「ウィンドウズの画面を終了するとき、なぜ「スタート」という名前のボタンをクリックしないといけないのですか」という質問だ。

この夢がやっとかなった。たずねたところ、彼は笑いながら答えた。よく聞かれる質問らしい。

「2005年にウィンドウズの大幅な変更を予定してるんですよ。そのときに変えられるかもしれません。」

ということでぜひとも2005年のメジャーチェンジにご注目あれ。

いろんな人が集まっていたイベントだけにたくさんおもしろいことを聞いたが、ひとつだけ映画「踊る大捜査線2〜レインボーブリッジを封鎖せよ〜」のネタの紹介をしよう。
映画の中で、レインボーブリッジを封鎖する、しないで、橋の上でもめるシーンがある。
実はあの橋は京都にある橋らしい。京都だから当然、背景は山になる。実際のレインボーブリッジは東京湾に架かっていて、まわりに山はない。
ふつうならその映像を映画に使う際に背景を消してしまうものだ。ところがこの映画はそこが違う。
あえてうすーく残してあるらしい。だから、よおくみるとバックに山が見えているというのである。

やられた、また観たくなったじゃないか。

気づいた人いたら教えてください。


ふるかわ 拝

平成15年9月15日(月)
第017号「2つの"ロッカー"」

〜今日は一日早い週刊yasushi それにはわけが・・・。〜

ちょっとうれしいことがあった。

NHKの深夜ドラマ「ロッカーのハナコさん」の続編「帰ってきたロッカーのハナコさん」が放送されることになったのだ。

ぱちぱちぱち。

商社に勤めるOLだったハナコさんが不慮の事故で命を失い、その後、幽霊になって会社のロッカーに現れ、後輩たちをビシビシ鍛えるというおはなし。

なんといっても、ハナコさん役のともさかりえがキュートだった。しかも服装がすごくすてきで、60年代風の感じ。古着屋で揃えた一点モノだったという。音楽が本間勇輔だし、主題歌は今井美樹。(これは当時のドラマ共通だったけど。でもあの曲もよかった。)とにもかくにもあんなにおもしろいドラマはない、というくらい好きで、当時もせっせと見ていたし、その後の再放送も見たし、今度、前回分の再放送をやるのでそれも見たいと思っているくらい。

なんかあんまり気合い入れて言う話じゃないな。

でも言います。

「帰ってきたロッカーのハナコさん」は10月6日(月)から11月6日まで全5週20回。
毎週(月)〜(木)23時〜23時15分。再放送は毎週(金)深夜0時45分〜1時45分(1週分)。

そして、この「帰ってきたロッカーのハナコさん」をNHKテレビの「プレマップ 」で紹介する。それが

9月15日(月)23時45分〜23時50分
9月19日(金) 1時00分〜 1時05分(18日深夜)
9月22日(月) 1時40分〜 1時45分(21日深夜)

なので、せめて15日の分を見ることができるようにと本当は週刊yasushiは16日(火)発行なのにそれを一日早めて15日(月)にHPにアップしたという次第。

しつこいけれども、前回放送された「ロッカーのハナコさん」(連続24回)の再放送の時間は以下のとおり。

9月27日(土) 23時10分スタート(4話連続放送)
9月28日(日) 23時10分スタート(4話連続放送)
9月29日(月) 24時15分スタート(4話連続放送)
9月30日(火) 24時15分スタート(4話連続放送)
10月1日(水) 24時15分スタート(4話連続放送)
10月2日(木) 24時15分スタート(4話連続放送)

なのでよろしければどうぞ。

お知らせは以上。そんなに力入れることないかな。


ともさかりえ といえば、どういうイメージだろうか。

かつて僕が自治省の中で地域振興券の責任者をやっていたとき、地域振興券のテレビCMを作ることになって各社コンペをやった。20社近く提案があったと思うのだが、そのとき、各社が提案してきたものの中で、ともさかりえを使ったものがたしか6社と断然多かった。彼女のお母さんが長野市の出身なので当時からちょっと注目はしていたのだけど、正直驚いた。

僕自身は、某社が提案してきた、サザエさんを使ったものがいちばん気に入っていた。
たしか「磯野家では、カツオとワカメで2枚もらえます」みたいな感じだった。ところがこのサザエさん案は、「子供だけじゃなく、お年寄りももらえるというイメージが足りない。」とする上司の激しい抵抗に遭い、お互い、折れるところは折れようというところになり、結局、飯島直子になった。どうでもいいか。

サザエさんの提案をした某社の担当が言っていた「政府広報はイメージが大事です。女優を使うと問題が起きたとき、そのCMが使えなくなりますよ。アニメはスキャンダルがないから、その点安心です。」というのは今でも印象に残っているなあ。


ロッカーといえば、もう一つ。映画「ロッカーズ」がいよいよ公開される。

監督は僕の中三の時の同級生、陣内孝則だ。これもまたお楽しみに。


ふるかわ 拝

平成15年9月9日(火)
第016号「はじめての日韓知事会議」

はじめての日韓知事会議が終わった。正式にはもっと長いタイトルだけど。

この会議では各知事が発表文というのを読み上げる。僕が発表したのはこれだった。

(2003年)第12回 日韓海峡沿岸県市道知事交流会議佐賀県知事発表文 (抜粋)

「佐賀県知事の古川康でございます。
おそらくは、ここに参加されているかたがたの中でもっとも若い者として、未来に向け、両国と両 地域のますますの発展を願いつつご挨拶申し上げます。  
まず最初に、12回目を数えるこの会議の開催に御尽力をいただきました、長崎県の金子知事をはじめ、関係者の皆様方に心からお礼申しげます。  
さて、私の生まれたのは、佐賀県唐津市です。韓国にも同じ漢字を書いて タンジンという地名があります。
そもそも唐津という地名自体が外国との港という意味で、かつて盛んだったであろう韓半島や大陸との交流をうかがわせます。そして、市内には韓半島出身の方がおられ、私の自宅の食卓には当時「朝鮮漬」という名前で呼ばれていたキムチが並ぶという食生活を送っておりまし た。  
そういう環境の中でしたので、自然に韓国に対する関心も高くなり、1988年、当時勉強しはじめたばかりの韓国語を試してみたいという気持ちとオリンピック前の韓国を見ておきたいという気持ちで、下関からフェリーで釜山に渡りました。船内で食べたのはカレーでしたが、カレーとご飯を別々によそう 日本式のカレーを私が食べている姿を見て、横にいたおばさんが、「貸せ」と いわんばかりに私の皿を取り上げ、ビビンパッ(プ)のようにぐちゃぐちゃとかき混ぜました。そして「マシッソヨ?」だったと思いますが、そういう言葉を かけてくれました。それが私の韓国体験のスタートでした。  
韓国の次代を担う若者を総称して「3・8・6世代」というそうですが、その言葉を借りれば私は、現在45歳で、77年に大学へ入学した1950年代 生まれですから「4・7・5世代」ということになりますが、いわば映画「シュリ」やドラマ「冬のソナタ」を身近に楽しんでいる世代でもあります。
これまで培ってきた、長い時間にわたる親善と友好の歴史をさらに新しい形に発展 させていくべく、努力してまいりたいと思っております。」


 ちょっとおもしろいでしょ?

日韓といっても日本中の知事さんが集まっているわけではなく、山口、福岡、 佐賀、長崎の4県と韓国側は釜山広域市、慶尚南道、全羅南道、済州道の4道市。
なんとなく親睦っぽいの会議なのかなと思っていた。

ところが実はけっこうシビアな議論があった。日韓トンネルをめぐってのことだ。このトンネルの入り口というか出口になることが予想される慶尚南道の知事さんが、このトンネルの構想について、熱っぽく持論を述べられ、このことを共同声明に入れ込むよう、主張され、それに対して、釜山市は反対、全羅南道、済州道は中間派で、日本側も福岡は慎重派、長崎と佐賀は中間派という感 じで意見が分かれたのだった。

日韓知事会議というと、日本と韓国で利害が異なるような印象があるかもしれないが、こんなふうに問題によっては、国ごとというよりは地域ごとに意見が 違うという時代に入ってきたなということを感じた。

会場には、関係者だけでなく、一般の方もたくさんいらしていた。そしてその中から、活水女子大学の学生が、韓国の知事に質問をした。それが、「冬のソナタ」のことだった。日本と韓国はアリランとキムチだけじゃない、新しい交流の時代に入ったことを感じた会議だった。

そういう雰囲気の中にいてふと思った。青少年の交流事業で佐賀と韓国の青少年を交流するとき、それぞれがカメラを持って、写真を撮るようにしたらどう だろうか。

テーマは「おもしろいと思ったものを撮ってね」

 韓国の子供は佐賀に来て、自分がおもしろいと思ったものを撮る。
 佐賀の子供は韓国に行き、自分がおもしろいと思ったものを撮る。

そうすると、相手がどんなものをおもしろいと思うのかわかるだろう。できたらそれをそれぞれの国で写真展をし、さらにネット上でも写真展をやれば、なおおもしろいのではないだろうか。

会議が終わって写真を撮った。写真を撮るとき、日本ではチーズ だが、韓国で はキムチ だ。そんな話をしながら写真に納まった。

ちなみにハワイでは写真を撮るときなんというか?

「ワイキキ」だっていうのだが、本当だろうか。


ふるかわ 拝

平成15年9月7日(日)
臨時増刊号「佐賀商工共済協同組合の破綻について職員に伝えたこと」  

佐賀商工共済協同組合の破綻によって被害に遭われている方々に心からお見舞い申し上げます。
先週の木曜日に私は記者会見をし、県が持っていた資料の中に過去の組合の財務関係の資料があったことを明らかにしました。
そして、その翌日の金曜日に、県職員全員に対して、以下のメールを送信しました。
本来、県職員あてのものなのですが、みなさまにも読んでいただきたいと思い、ここにアップしました。

私の今回の問題への対応についての考え方が少しでも伝わればと思います。


タイトル: 知事室から(佐賀商工協同組合 編)
 
古川 康 です。

佐賀商工共済協同組合の破綻について、破綻による被害者の方には、心からお見舞いを申し上げますとともに、職員のみなさまには経済部だけでなく、庁内のさまざまな部署で対応していただいていて、感謝申し上げます。

破綻による被害者救済と破綻に至る原因究明は、破産管財人が進めていきますが、県としても、組合員の数が多いこともあり、スピーディに、そして ていねいに、そしてオープンに、 という三つの柱のもとに県としての対策を実行しています。

そういう考え方の下、対策本部と窓口の設置、心のケア窓口のスタート、さらには9月議会に向け県としての立て替え制度を検討することを公表してきました。

また、県では、今回の事件発生以来、経緯の把握を進めていて、県庁内にある資料をすべて洗い出す作業を進めていました。その作業の中で、年次ごとの報告書以外に、平成7年ぐらいの財務状況に関するメモが発見されました。

私が、そのファイルを見たのは、先週の日曜日でしたが、起案書もない、ただのファイルで、誰がどういう目的でこの資料を作ったのか、どういう処理をしたのかわからないものだったので、どういう流れの中でこの資料があるのか、当時の担当職員に確認するよう、指示しました。

そんな中、昨日、破産管財人から、「県が持っている組合関係資料を提出してほしい。」という要請がありました。県としては、関係資料を提出してしまえばそれから先は確認ができないことになりますが、破産管財人の業務に協力するため、提出することとし、あわせて、こういう資料を提出したということを公表しておくことが、物事をオープンに進める県政として必要であると考え、公表しました。

職員のみなさんにおかれては、今回問題となっている資料は県が進んで公表したものであること、県としての責任は、破産管財人の業務を通じて明らかにされるものであると考えていることをご理解いただきたいと思います。ご意見もお待ちしています。


ふるかわ 拝

平成15年9月2日(火)
第015号「デビュー」

この仕事を始めてからシンポジウムのパネリスト(ちなみにパネラーというのは和製英語だそうな。10へえくらいかな。)を頼まれることが多くなった。

そして、こないだの週末はなんと県外2つだった。長崎県島原市と福岡県柳川市。ここでは島原のことを書きたい。

それは福祉のトップセミナーin雲仙という名前だった。これは雲仙コロニーという総合的な、日本に誇る障害者施設を運営しておられる田島良昭さんが主催して、毎年開かれている福祉をテーマにしたセミナーで、今回はその中のシンポジウムに出てくれないかと浅野史郎宮城県知事から僕に話があったのだった。

主催者の田島良昭さんとは長崎県商工労働部長時代からの知り合いだったし、実は初めてここで告白するけれど、僕は浅野知事が宮城県東京事務所で秘やかにやっている各省庁の若手課長クラスの勉強会のメンバーの一人だった。行かないわけには行かなかったし、それどころか喜んで引き受けた。

いま、障害者福祉には、介護保険は適用されていないのだが、それを適用できるように運動していこうというシンポジウムだった。
ふつうのシンポジウムとはちょっと違った。なんせ、結論は先に決まっていたのだから。

「障害者福祉を介護保険の対象とすべし。」(本当はもう少しいろんな前提と限定があるのだけどそこはご勘弁。)それが結論だった。僕も賛成した。

たとえば、ある人が50歳で介護が必要な状態になったとする。
もし、その原因がアルツハイマーだったら、それは介護保険の対象となるが、もし、海で泳いでいて、おぼれてしまい、無酸素症でそうなったとしたらそれは介護保険ではなく、障害者福祉の対象となる、というのがいまの姿だ。
介護が必要だという同じ事実を前にして、理由によって適用制度や内容が変わるのはいわば「行政の都合」ではないだろうか。それよりも、事実に応じたケアができるようにすることが「住民ニーズ」に応えたものになるのではないか、そんな発言をした。

また、育児を社会全体で負担を分かち合う「育児(こども)保険」も提唱した。誰もが育児をした時代と今は状況が違ってきているということをいいたかった。これはこれからどんどん発言していこうと思う。議論はあるだろうが、こうでもしていかないと子育て支援への財源確保がおぼつかないのだ。

シルバーシートが嫌いだ、とも発言した。ケアすべき人をそこだけに閉じこめておくような発想はどんなもんだろうか。シルバーシート以外にそういうハンディキャップを負った人が安心して座る場所がないようなことじゃなくて、どこのドアから乗ってきても、どこかには座れるような、そういう地域づくりをめざしていきたいと言った。ちょっと気負いはあったけど、本心であることは事実、少しでもそういう状況に近づけていきたいと思う。

今回、パネリストとして知事では僕のほか滋賀県の國松知事、市町村長では、北海道ニセコ町の逢坂誠二町長、愛知県高浜市の森貞述市長、大分市の釘宮盤市長、佐世保市の光武市長が参加していたのだが、田島さんが、しめくくりのご挨拶で、「発言のとき、事務方が準備したメモを見ながらたどたどしい発言をする首長が誰もいなくて、みんなきちんと自分の考えや思いを語っていたことがとても頼もしかった。」ということをおっしゃった。

たしかにそうだった。もうそういう時代なのだし、その分責任は大きいということなのだろう。

田島さんから別れ際こう言われた。「今日、呼んだのは(ああ、仕掛け人は田島さんだったのね!)古川さんを福祉の世界にデビューさせたかったんです。佐賀県の人たちが待ってます。お願いしますよ。」

デビュー。なんかなつかしい響きだった。

なんか、がんばろう、という気持ちになった。いちばんの元気をもらったのは僕だったかもしれない。

このシンポジウムは読売新聞社が共催している。だから、いずれ紙面に載るという。また、そのときじっくり読んでいただければうれしい。


ふるかわ 拝